エリニュス 〜処刑官キリエ〜(长篇日文 酷刑 虐杀 拷问 颜面骑乘 温柔)
原文地址:https://novel18.syosetu.com/n7888eh/
作者:中田ムータ
とある剣と魔法の世界。
その世界では、「ピッグス」と呼ばれる豚っぽい子供が、普通の人間の両親から突然変異的に生まれてきます。人権意識の低い世界ですので、彼らは差別を被ります。ピッグスとして生まれた子供は、生まれてすぐ両親から引き離され、奴隷教育を受け、強制労働に一生従事させられます。ピッグスが生まれる原因はわかっていませんが、なぜか「男子しか生まれない」という共通点があります。彼らは見た目こそちんちくりんの豚っぽい外見ですが、知能は普通の人間と変わりません。当然、自分たちの境遇に憤りを覚えている者も多いです。彼らは地下組織を結成し、世界を変えるための、合法および非合法の活動を行っています。
さて、この世界で突然変異的に生まれてくるのはピッグスだけではありません。
美しい容姿と不思議な力を持って生まれてくる子供たちもいて、彼女たちは「エリニュス」と呼ばれています。エリニュスが生まれる原因はわかっていませんが、なぜか「女子しか生まれない」という共通点があります。彼女たちは、ある種の特権を享受して人生を歩みます。まずは身体的特徴において。彼女たちは普通の人間と比べて身体能力が高く、長身で、脚が長くて小顔です。続いて「魔術」において。これはエリニュスたちの中でも個人差が大きく、例えば何もない所に火を出現させたり、電気を発生させたり、傷を癒したり等、様々です。寿命についても普通の人間より大幅に長いです。さらに、二十歳ごろに成熟するとそれから死ぬまで老化しないという特徴もあります。
ピッグスの地下組織の活動は日に日に過激化していき、誘拐や殺人、無差別テロなどが当たり前のように起きるようになりました。それを取り締まるため、やがて対地下組織取締局、通称「管理局」が設立されます。管理局には、その任務の性質上、魔術を使えるエリニュスが多く在籍することになりました。
これから語るのは、ピッグスの地下組織の青年「ムータロ」が、管理局に捕らえられ、エリニュスの処刑官「キリエ」によって、徹底的に可愛がられてしまうというお話です。
※この作品はPixivとアルファポリスにも掲載しています。
https://www.pixiv.net/member.php?id=24697236
https://www.alphapolis.co.jp/novel/538599590/679280627
プロローグ
管理局、第七監獄の地下一階。
仄暗く伸びる石造りの廊下。無音の中に時折響く水滴。冷気。
天井に一定間隔で点在する、控えめな橙色の魔力灯。
廊下の両側には十といくつかの鉄扉。
それら一つ一つが、捕らえられたレジスタンス用の一時拘留室である。
その中の、とある一室。
部屋の奥、闇の中から発せられる苦しげな呼吸音。
そこには、全裸で拘束架スパイダーに捕縛され、苦悶の表情を浮かべるピッグスの青年。
彼の名はムータロ。地下組織レジスタンスの闘士。十八歳の古参兵。
身長はピッグスとして平均的な九十センチメートルほど。
手足が短く頭の大きいちんちくりん体形だが、無駄な脂肪は無く、鍛え上げられた筋骨隆々の体。
ストイックさと忍耐力を感じさせるソリッドな頬と四角い顎。
彼はなぜ、ここにこうして拘束されるに至ったのか?
時は三日前、管理局強襲部隊による地下組織支部拠点の急襲。
その際、仲間たちを逃がすため囮となって逮捕されたのだ。
後悔はしていない。いつでも死ぬ覚悟はできていた。
自分はここで終わるが、逃げ延びた仲間たちがいつか必ず、ピッグス解放の夢を実現してくれる。
精神的には、彼はもう満たされていた。いっそ清々しかった。
苦闘の日々が終わり、ピッグス解放の理想に殉じて死ねるのだから。
だが肉体的には、拘束架の残酷な捕縛が彼を苛んでいた。
脚は正座の形で拘束され、膝裏に鉄棒が挟み込まれており、血流阻害で腫れ上がっている。
胴体は、架の背柱に背中を接した状態で、拘束革帯ベルトで固定。
腕は、背中に回された状態で架の背柱に付属した枷に拘束。
さらに、顔面は架の背柱と一体となった口枷で固定。
食事は、初日に口枷から流動食を強制的に流し込まれたきりで、排泄に至ってはオムツだ。
そんな状態で、すでに丸二日以上拘束されていた。
廊下からの足音を、ムータロの鋭敏な聴覚が捉えた。音の数から察するに、二人。
尋問だろうが処刑だろうが、覚悟はできている。
それでも、足音の目的地を気にせずにいることはできず、ムータロは耳を澄ました。
音が次第に大きくなる。それが自分の拘留室を通り過ぎることを一瞬期待してしまうムータロ。
しかし、そのような期待は、裏切られるために存在するのが常だ。
足音が、ムータロの拘留室の前で止んだ。
心拍数が上がり、呼吸が早まる。冷や汗が額を滑り落ち、その塩分が目にしみる。
軋んだ音を立てて鉄扉が開く。魔力灯の淡い橙の光が流れ込み、暗闇に順応しきったムータロの目を刺した。
扉の向こうに現れたのは、二人の男。
「うぉっ、くっせ。漏らしてんな、コイツ」
鼻に手を当て、眉間にしわを寄せて侮蔑の言葉を漏らしたのは、獄司の制服に身を包んだ、あまり賢くはなさそうな若い男。
「ふむ、排泄の処理も獄司の仕事じゃろう。誰かさんの怠慢、職務規定違反ということじゃな」
片眉を吊り上げ、獄司への皮肉で応じたのは、検察官の黒い法衣ローブに身を包んだ白髭の老人。
検察官がいるということは、少なくとも処刑の時が来たというわけではないのだろう。
しかし妙ではある。そもそも、ピッグスに裁判を受ける権利はない。したがって、検察官が自分に用などないはずだ。
では目的は何だ?思考を巡らすムータロ。そして一つの可能性に思い当たる。
「ピッグスの青年よ。単刀直入に言う。取引じゃ。”協力者”にならんか?」
やはりそういうことか。あまりに想定通りの内容に、思わず鼻息が漏れる。
”協力者”だと?論外だ。これまでの彼の人生が、その選択を決して許さない。
ピッグスとしてこの世に生を受け、目が開くより前に奴隷育成施設ファームへ収容された。
そこでは名前すら無く、ただの番号で呼ばれた。
八歳で施設を脱走し、荒野で行き倒れているところを地下組織レジスタンスに拾われた。
ムータロという名を授けられ、教育を受け、世界の歪みを知った。
訓練を施され、仲間ができ、役割を与えられ、日々の糧を得た。
闘争の日々を過ごす中、ピッグス解放という地下組織の理想、それがいつしか彼自身の生きる目的となっていった。
地下組織を裏切ることは、自分の生を裏切るのと同じだった。彼が培ってきた十年とは、そういうものだった。
「口枷を外してやってくれ」
検察官が獄司に言う。
獄司は面倒そうな表情を浮かべながらも、一応は自分の仕事をこなした。
「ぷはぁーーーっ!げほっ、げほっ⋯⋯!」
口枷が外れ、二日ぶりに顔面が解放されたムータロ。
溜まっていた唾を床に吐き捨て、口の中を新鮮な空気でリフレッシュする。
首の筋肉を動かし、脳への血流を活性化させると、だいぶ思考がクリアになってきた。
「人心地ついたかの。して、答えはどうじゃ?」
ムータロはゆっくり顔を上げ、冷たい侮蔑のこもった目で老人を見上げる。
そして、目を見据えたまま意識的にしばしの沈黙を挟んだ後、
「期待に添えず悪いが、答えはノーだ。論外だ。俺のこれまでの人生が、その選択を決して許さない」
先ほど脳内で思ったことをほぼそのまま言った。
ムータロと検察官は、視線をぶつかり合わせたまま、しばし沈黙する。それを破ったのは、老人の方だった。
「⋯⋯⋯青年よ、わしゃ七十年生きてきた。だからお前さんよりものをわかっている、などどは言わん。だが、年寄りの話はちゃんと聞いた方がええ。自分がジジイになってそれがよくわかるんじゃ。よいか、お前さんは死ぬ覚悟などとっくにできてるんじゃろう。だが、この世にゃ、死ぬより辛いことなどいくらでもある。そして、この申し出を拒否した場合、お前さんはそのうちの一つを味わうことになる」
「拷問か?なら無駄だ。誰かが捕らえられた時点で、そいつが知らない場所へ拠点は移動される。残念だが、俺をいくら拷問しても有益な情報は出てこないぞ」
本音を言えば、拷問は恐ろしい。そんな内心を気取られたく無いという思いもあってか、やや勢い込んだ口調で言った。
「拷問⋯⋯。われわれ人類の最もおぞましい発明の一つじゃな。それは二種類ある。何かを聞き出すための拷問と、刑罰としての拷問じゃ」
老人は続ける。
「この面会中の取引オファーに応じなかった場合、お前さんは処刑官の管理下に入ることになる。管理局の処刑官が行うのは後者のほうじゃ。そして、ここ第七監獄の処刑官は、わしが知る限り、管理局のすべての処刑官の中でも、苛烈さにおいて明らかに一線を画しておる」
そして、なぜか目を伏せて、
「わしゃ、あの娘を知っとる」
続けて膝をつくと、ムータロの肩を掴み、その目を見据えてこう言った。
「よいか、たとえお前さんがどんな強靭な戦士、どんな勇者だろうが、あの娘の前では何の関係もない。わしは心からお前さんのために言っておる。この面会時間が最初で最後の機会なんじゃ。悪いようにはせん、わしを信じてくれ。取引に応じるんじゃ⋯⋯!」
ムータロは、目の前のこの老人の、まるで懇願するかのような言い様に、さすがに違和感を覚えた。
同時に真摯さを感じた。好ましい人物だとさえわずかに思った。
だが、ムータロがこの老人を信頼するにも、老人がムータロを説得するにも、今はあまりに時間も言葉も足りていなかった。
「検察官、時間だ。これ以上は、"職務規定違反"ですぜ」
覚えたての言葉で皮肉を言い返せたことに満足げな卑笑を浮かべつつ、獄司が言った。
そして、今度は検察官の命令を待たずに、ムータロの顔面を再び口枷で拘束し始めた。
老人は、獄司が口枷を締め終える最後の瞬間まで、ムータロの口から肯定の言葉が紡がれることに期待しているようだった。
しかし、そのような期待は、成就されないために存在するのが物語の常だ。
ムータロの答えは最後まで沈黙だった。
程なく、口枷が締め終えられた。もう声を発することはできない。
”協力者”オファーを受ける機会はこれで永久に失われたのだ。
「愚かな青年よ⋯⋯。せめて、お前さんに速やかな安らぎが訪れんことを願う。神の加護があらんことを」
検察官は目を伏せ、ムータロの肩に手を触れたまま、祈りの言葉を唱えた。
そして、あろうことか、ムータロの額に口づけをした。
額への口づけはよほど親密な仲、ーー例えば家族のようなーーでもなければ普通はしないものだ。
老人の行動の意味がわからず呆気にとられるムータロ。
「さらばじゃ」
検察官の老人は長い息を一つつくと、何かを振り切るように勢いよく立ち上がり、背を向けて歩き去った。
開いた時と同様、軋んだ音を立て、拘留室の鉄扉が閉じられた。
ふたつの足音が遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。
闇と静寂。その中に再び一人となったムータロ。
先ほどの検察官との会話を思い出す。
刑罰としての拷問。もちろんそれは恐ろしい。想像するだけで胃袋が縮む感覚がする。
だが、事ここに至ってしまっては、もうどうしようもない。どんな拷問をされるにせよ、命尽きるまで受けきるしかないのだ。
もうひとつ、会話の中で引っかかったフレーズがあった。
ーーわしゃ、あの娘を知っとるーー
娘、と検察官は言った。女ということか。
管理局で処刑官になるなど、よほど頭のイカれた女なのだろう。これも不安材料だが、考えても仕方がない。
ムータロは検察官との会話を心の隅に追いやる。すると今度は、自分との対話が始まる。
ーー取引に応じるべきだったんじゃないのか?ーー
心の中で、悪魔の声がかすかに囁いた。その囁きは、放置すると際限なくループする類のものだ。
自分が、たとえわずかにでもそう思っている、ということが忌々しかった。
ムータロは目に力を入れて強く鼻息をつき、悪魔の囁きを体から吐き出そうとした。
そうだ、悪魔はこの闇と静寂からやってきたのだ。ならばそこに帰してやればいい。
闇の中での自分との対話は、時間感覚を失わせる。一分、十分、いや、一時間が過ぎたかもしれない。
ムータロはいつしか眠りに落ち、意識と無意識の境界線上で、こんな夢を見た。
見知らぬ家の中。天井が見える。
見覚えのない若い男女と、だいぶ若返ったあの検察官の老人が、こちらを見下ろしている。
彼らは困ったような、悲しんでいるような表情を浮かべながら、何事か話し合っている。
若い女が、急に顔を両手で覆ってすすり泣きはじめ、若い男の方が彼女の頭を胸に抱き、なにか慰めらしき言葉を言っている。
ふいに、右手に何か柔らかいものが触れる。そちらに顔を向けると、そこには赤ん坊がいて、同じようにこちらを見ている。先ほど触れたのはその赤ん坊の左手だ。
その赤ん坊はグレーの瞳でこちらを見て無邪気に笑う。するとなぜか、ムータロはその笑みがとてつもなく恐ろしいもののように感じ、検察官の老人に助けを求めようとする。
が、先ほどまでそこにいたはずの検察官と若い男女はもうどこにもいない。
周りの景色も、見知らぬ家の中だったはずが、いつのまにか、がらんどうの空間になってしまっている。
急に、右手が強く掴まれる。そちらを見ると、あの赤ん坊のグレーの瞳は赤く変色し、無邪気な笑みは捕食者のそれに取って代わり、口角を吊り上げて、人間のものと思えないような音声で、邪悪なマントラめいてひたすらある一語を繰り返した。
取引ディール、取引ディール、取引ディール、取引ディール、取引ディール、取引ディール⋯⋯!
暗闇の中でうなされるムータロ。
かくして、このピッグスの青年の運命の帰還不能点は過ぎ去ったのであった。
時計の針はもう、二度と戻らないのだ。
Act.1 扉
「さて、俺は上に戻るぜ。もう二度と会わねーだろうなぁ。あとは処刑官がお前を迎えに来る。せいぜい可愛がってもらいな」
そう言い残すと、ムータロを地下一階の拘留室から地下七階のここまで、移動式拘束架を引いて連行してきた獄司は、もと来た扉の向こうへと去っていった。
ムータロが連行されて来たそこは廊下のような、部屋のような、どちらとも形容しがたい空間だった。広さはそれなりにあり、長辺十メートル、短辺五メートル、高さ五メートルといったところか。出入り口は二つ。入って来た扉と、その反対側にある十字の彫刻が施された大きな扉。床、壁、そして天井は、反射するほどに磨かれた白い石造りだ。天井に設置された白い蛍光魔力灯が明るく照らしている。
無音だ。内臓がじわりとするような緊張感。
ついにこの時が来たのだ。俺は処刑される。検察官も言っていた通り、楽に死ねる類の処刑ではないのだろう。
胸に去来する数々の思い。全てが終わったことへの開放感。闘いの道半ばで終わってしまうことへの無念。処刑への恐怖。仲間たちへの感謝。魂の存在、輪廻、カルマ、来世。自分はなぜこの世に生まれて来たのか⋯⋯。
数分経っただろうか。思考に沈んでいたムータロの耳が、十字マーク扉の向こうから近づいて来る足音を察知した。
硬い音質。おそらく金属製の細いヒール。処刑官は女か。これも検察官が言っていた通りだ。
だが、音と音の間隔がかなり長いのが気になる。普通に歩いているとすればかなり長い歩幅の持ち主ということになるが⋯⋯。
音は次第に大きくなり、やがて、十字マーク扉のすぐ向こうで止んだ。
ゴクリと唾を飲み込むムータロ。
いる。あの扉の向こうに。処刑官が。
高まる緊張。額を滑り落ちる汗。荒くなる鼻息。
(シュゴッ!)
扉の十字マークに沿って縦横の亀裂が入った。
四つに割れた扉が、それぞれ斜め上と斜め下にスライドして、重い音を立てながらゆっくり開いていく。
(ゴゴゴゴゴゴ⋯⋯ガシン)
扉が開ききった。
ムータロは刮目した。
扉の向こうには、微笑みを浮かべた一人のエリニュスの姿があった。
Act.2 女神降臨
エリニュス。
普通の人間の両親から、突然変異的に生まれて来る希少体。
理由は不明だが、女性しか生まれてこない。
特徴として、長身、美貌、長命。体力、知力共に優れる。
さらに、通常の人間やピッグスには持ち得ない不思議な力──魔力と呼ばれている──を持つ、生物学的特権階級とでも呼ぶべき存在。
彼女たちはそもそも絶対数が少ない。とはいえ、”目撃したら奇跡”といったレベルでもなく、街を一日歩けば、一人くらいは普通に見かける程度にはメジャーな存在だ。もちろんムータロとて初めて見るというわけではない。つい先日、|自分たち<レジスタンス>の拠点を強襲した部隊のリーダーもエリニュスだった。
しかし、いま目にしているこのエリニュスは、彼がこれまで見たどのエリニュスよりも美しいように感じられるのだ。自分がなぜそう思うのか理由がわからず、ムータロは彼女を観察する。
二メートルを超えているであろう細身の長身。
その三分の二を占めるに迫る長く形の良い美脚。
くびれた腰つき。キュッとしたお尻。
骨格自体が細いため痩せているように見える胴体。控えめな胸。
しなやかで柔らかそうな腕。長い指。
小ぶりな頭部。十二頭身ほどあるだろうか。
白皙の小顔。涼やかな目元、グレーの瞳。細く筋の通った鼻。尖った耳。小さく整った赤い唇、艶黒子。
ポニーテールにまとめられた、美しい黒髪。
そしてその身に纏う異装。
フロント編み上げタイプの、黒いタイトフィットの魔獣皮製サイハイブーツ。踵はシルバーのピンヒール。
黒のガーターストッキング。太もも部分に赤い十字があしらわれている。
黒いタイトフィットの魔獣革製コルセットと、それに付属した黒のプリーツマイクロミニスカート。
白い上品なブラウス。その両肩に赤い十字の刺繍。
首元を飾る、細身のフェミニンな赤いリボンタイ。
黒いタイトフィットの魔獣革製ロンググローブ。
ナースキャップのようなデザインの小さめの魔獣皮製帽子。前面には赤い十字マーク。
ムータロは呼吸を忘れて見惚けてしまう。
神々しきエリニュスは長い手足を振って悠然と迫る。
そして、彼の眼前、ほとんど跨ぐような位置取りで立ち止まると、腰に手を当てて股下の青年を見下ろした。
ムータロの顔の両脇にそびえる黒サイハイブーツの美脚。
長身美女の股下で拘束架に捕縛されているちんちくりんの自分。屈辱!
エリニュスが拘束架の首部分を操作した。すると、ムータロの頭部の拘束が後ろに傾き始めた。
傾きに比例してムータロの視線の角度が上がっていく。視線はサイハイブーツを過ぎ、ガーターストッキングを過ぎた。続いてストッキングとスカートの間の白い内腿を過ぎると、やがて、物理的必然によって、ムータロの視線はプリーツマイクロミニスカートの内奥へと到達した。
黒、だった。シアーレースのラグジュアリーなTバック。
(⋯⋯ッ!)
見てはならないものを見てしまった気がしたムータロは、思わず目をきつく閉じた。
その様子を見たエリニュスが、微かに笑った。
微笑のエリニュスは、後ろ手を組んで少し前かがみになると、真上を向いたムータロの顔を覗き込むように見下ろして、言った。
「はじめましてムータロくん。私はキリエ。ここ第七監獄の主任処刑官です。今日からキミを担当するから、よろしくね❤︎」
キリエの第一声。
凛とした声質で、思いのほか優しげでフランクな口調だった。
続けて言う。
「今日は、”事前処置”をするからね❤︎」
事前処置?文字通り、何かを始める前の準備的な処置のことだ。何のことはない、それ自体はごく普通の言葉。だが、この状況で、エリニュスの処刑官から聞くそれは、ムータロの胸にあまりにも不吉に響いた。
彼女は一体何をするつもりなのだ?”事前処置”の意味するところは何だ?
「ふふ、”何をされるか不安”って顔してるよ?」
図星を指され、ハッと我に帰るムータロ。羞恥と怒りで顔が紅潮する。視線を向けてキリエを睨みつける。
その様子を見たキリエが噴き出す。
「あははっ、分かり易い。いいよ、素直な子は好きだよ」
素直な”子”だと?またしてもムータロの自尊心を逆なでするキリエの言葉。
頭にさらに血が上り、額に血管が浮き出すムータロ。
「大丈夫。心配しなくてもすぐに分かるから⋯⋯。ふふ、それじゃ、さっそく行こっか❤︎」
キリエはムータロの頭部拘束の角度を元に戻した。
そして彼の拘束架をキャリーバッグのように引いて、十字マーク扉の方へと歩き出した。
Act.3 処置室
(ゴゴゴゴゴ⋯⋯ガシン⋯⋯!)
背後で、十字マーク扉が重い音を立てて閉じた。
十字マーク扉の奥は、五十メートルほどの廊下になっていた。
キリエはムータロの拘束架を引いて奥へと進んでいく。
廊下の突き当たりはT字路になっており、そこを左に曲がった。
曲がった先は五十メートルほどの奥行きがあり、いくつかの金属扉が並んでいた。
そして、その中の一つの前でキリエは足を止めた。
「さ、ここが”処置室”だよ⋯⋯❤︎」
ムータロを見下ろして告げる。
白皙の頬に薄く朱が差し、グレーの瞳には隠しきれない嗜虐の喜びが浮かんでいる。
その様子はどことなく、麻酔をかけた哀れな芋虫を、二度と出られない巣穴に運び込む狩りバチを連想させた。
(いよいよか⋯⋯!)
ムータロの額を冷や汗が滑り落ちる。
唾を飲み込もうとしたが、緊張のあまり乾ききった喉に嫌な痛みが走る。
キリエが金属扉に手をかざすと、中央から割れて左右に開いた。
(プシュゥゥゥゥゥゥ⋯⋯)
“処置室”から冷気が白い煙となって下方に漏れ出し、ムータロを包み込む!
「ウウッッ!ゲホッ、ゲホッ!」
肺を凍らせるような冷たさに咳き込むムータロ!
「ふふ、ごめんね。裸のキミにはちょっと寒いかな❤︎」
キリエは、ムータロの拘束架を引いて室内に入る。すぐに背後で扉が閉まった。
“処置室”内は十五メートル四方ほどの広さだった。
黒いタイル張りの室内を白い蛍光魔力灯が明るく照らしている。
冷気に震えながらも、素早く観察するムータロ。
部屋の中央にある寝台──処置台──が目を引く。
材質は不明だが、奇妙な有機的質感を持った曲線的形状で、頭部、胴体、手足を支える部位がそれぞれ分離している。
あれに拘束されることまでは容易に想像がつく。問題はそのあとに何をされるのかだが⋯⋯
と、そこでムータロはあることに思い至る。
あの処置台に拘束するということは、一時的に今の拘束架の拘束を解くことになるはずだ。その時にこのエリニュスに一矢報いることができるのではないか?そしてあわよくば脱出することも。脳内で様々な反撃パターンのイメージを描くムータロ。
「処置台に移すよ。暴れないでね❤︎」
果たしてムータロの想定通り、キリエは彼の拘束架を解き始めた!
頭の拘束が外され、腕の拘束が外され、脚の拘束が外され、胴体の拘束が外され⋯⋯
(よし、今だ!)
ムータロは全身全霊の力を込め、キリエの顔面めがけてジャンピングアッパーカットを繰り出した!
ガキィッ!
手応えあり!否、よく見よ、ムータロの拳はキリエの顔面を捉える寸前で彼女の右手に受け止められている。無念!
「あーあ、悪い子だ❤︎」
おそらく受刑者のこうした行動には慣れているだろう。キリエは余裕の微笑だ。
そして掴んだ右手を振ってムータロの体を黒タイルの床に叩きつけた!
ドゴォ!
「ウゴァッッ!ガハッ!ゴハッ!」
叩きつけの衝撃で呼吸ができずうずくまるムータロ!
キリエは悶絶するムータロの首根っこを掴んで持ち上げると、手際よく処置台に拘束していく。
ムータロの両手首、両足首、両肩、両腿の付け根、胴体、頭(口)、それぞれが処置台から伸びる拘束帯で捕縛されていく!あっという間に処置台への拘束が完了した。
処置台の拘束は拘束架以上にタイトで、ムータロがいくら力を込めても文字通りビクともしなかった。
(く、くそっ。なんだ、この拘束の硬さは⋯⋯まったく動けない⋯⋯!)
キリエは処置台に拘束されたムータロの頭の所に立ち、彼の目を真上から覗き込んだ。
そして口を開く。
「いよいよ始まるよ。怖い?」
ムータロはまだダメージから回復しきっていなかったが、それでもキリエを睨みつけた。
本音を言えば怖くてたまらない。何をされるかもわからない。だが気持ちで負けたら終わりだ。
「ふふっ、気骨があっていいね。でもそれがどのくらい持つのかな⋯⋯❤︎」
キリエはそう言うと、処置室の隅へと歩いて行った。
そして、白いシーツの被せられた車輪付き台を押して戻って来た。
先ほどと同じように、ムータロの頭の所に立ち、真上から見下ろす。
キリエが唐突にこう質問した。
「ねえ、ムータロくん。猛獣の武器ってなんだと思う?」
(猛獣の武器?いったい、なんの話をしている⋯⋯?)
ムータロはキリエの言葉の意味を察しかねる。
「私はこれからキミの処刑を担当するよね?それってつまり、私はキミを”管理”しなくちゃいけないってことでしょう。さっきみたく猛獣のように暴れるキミを管理しやすくするには、どうすればいいかな?」
キリエはムータロの頭部拘束部を操作する。すると、ムータロの首の角度が正面から右に回り始めた。
ムータロの視界に先ほどキリエが押してきた車輪付き台が入る。
「これを見て❤︎」
キリエが車輪付き台を覆っていた白いシーツを外した。
そこに現れたシルバー製の道具類を見て、ムータロは青ざめる。
サイズや形状の違う何本ものの注射器、大小諸々の鋏、鑷子、鉗子類。メス。
用途不明の、内側にブレードのついたリング型器具。
薬液の入ったいくつかの瓶。
ガーゼや包帯、黒いゴムのキャップのようなもの。
その他、なんと形容して良いかもわからぬ器具の数々⋯⋯
(ま⋯⋯まさか⋯⋯!)
ここに至って、ムータロはキリエの言う”事前処置”が何たるかをほぼ正確に理解し、心底から恐怖した。
そして、先ほどキリエが言った“猛獣の武器”、それはすなわち⋯⋯
「鋭い牙と強靭な四肢。まずはそのへんだよね❤︎」
Act.4 処置1
「ふぐぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!!んぐぅぅぅぅぅぅっっ!!!!」
ムータロは全身の筋肉に全霊の力をみなぎらせて恐怖の処置台を脱しようと試みる!
しかし、その拘束はほんの一マイクロメートルほども緩む気配すらない!
「最初にお薬を打つからね❤︎」
キリエが左手で頭の横にシルバーの注射器を構えて言う。
彼女が右手でムータロの口の拘束具を操作すると、ムータロの口が強制的に開かれ、その舌が口外へ伸長されていく!
(ギリギリギリギリ⋯⋯)
「フッ、フガァァァァァ!!!」苦悶するムータロ!
「さ、ちくっとするよー⋯⋯❤︎」
キリエの注射器がムータロの舌へと近づいていく!そして、
プスリ。
「オァァァァァァァァァァァァッッッッッッ!!!!!!!!!!」
ムータロの絶叫が処置室に響き渡る!顔面の筋肉は痙攣し、脂汗を浮かべて悶絶している!
「もう少し奥まで刺すからね⋯⋯」
キリエはゆっくりと丁寧な動きで舌の奥に針を進めていく!
「オァァァッッッッ・・・!ンッ、ンンンンンンッッッッ!!!」
侵入する針の痛みに涙ぐんで悶絶するムータロ!
「ふふ、痛がり屋さんだね。ほら、お鼻でゆっくり呼吸しましょうね⋯⋯すぅーーーーっ、はぁーーーーっ、すぅーーーーっ⋯⋯」
優しくなだめるキリエの声。そのリズムに合わせ、ムータロの呼吸が少しずつ静まっていく。
薬液は残酷なほど緩慢に注入されていく。
呼吸を乱さぬよう懸命に耐えるムータロ。
二、三分ほどたち、やっと注射器が抜かれた。
「はい、よく頑張りました❤︎」
優しく微笑んでムータロを褒めるキリエ。
「ハァーーーッ、フゥーーーーッ⋯⋯」
注射が抜かれたことに安堵し、脂汗を浮かべながら深く呼吸を繰り返すムータロ。
これまでの人生で、歯の治療で麻酔を打たれたことはあったが、それは全て歯茎にであった。今回のように舌に注射されたことは皆無だ。
舌に軽い痺れと熱感がある。それは徐々に口内に広がり、さらに顔面、首、体全体に広がっていく。
おかしい。ムータロは違和感を覚えた。
抜歯だけなら口内の麻酔で十分なはずだ。だが、これは明らかに体全体に作用している。
さらにおかしいのは、痺れはあるのに感覚が鈍くならないのだ。いやむしろ、鋭くなってさえいるような⋯⋯。
やはりおかしいぞ。皮膚に感じる処置台とその拘束帯の感触までもが、熱感を持ち始めている!あ、熱い!い、いや・・・痛い!何なのだこれは!
「そろそろ効いてきたかな⋯⋯❤︎」
キリエの手がフェザータッチでムータロの胸を優しく撫でた。
「アッ、アアアアアアアアッッ!!!アッアアアアッッ!!!!」
何と!優しく撫でただけだと言うのに、ムータロの胸の皮膚に鋭い痛みが走った!
「ふふ。麻酔なんてかけてあげるわけが無いでしょう?」
「さっきキミに注射してあげたのは、運動神経だけを眠らせて、痛覚神経を鋭敏にするお薬。ほら、体にはもう力が入らないのに、痛みだけは普段の何十倍も強く感じるでしょう?」
そう言って、キリエはムータロの胸に爪を立てた!
「アギャァッァァァァァァアア!!!!!!!んごぁぅおぅぇっっっっぶっ!!!オァッ、オッォあっ!!!!」
なんという痛み!全身の皮膚がむき出しの痛覚神経と化したかのようだ!
そして、爪を立てられただけでこの痛みだというのに、この後行われるのは⋯⋯!
ムータロの視界に、抜歯用鉗子を手にして見下ろすキリエ!
「さ、始めよっか❤︎」
Act.5 処置2
(ゴリッ⋯⋯グリグリッ!グキャッ!⋯⋯バキム!)
「フゴァァァァァアァァァァァァァァァアァァァァァァ!!!!!!!!!」
最後の一本を抜歯されたムータロの悲痛な絶叫が響く!
「はい、良く頑張りました⋯⋯❤︎」
頬を上気させたキリエがムータロに優しく労わりの言葉をかけた。
全抜歯されたムータロの口内はさぞや惨憺たる血の海に⋯⋯否、見よ、不思議なことに血はほとんど出ていない。まるで初めから歯などなかったかのような綺麗な歯茎が残されている。
なぜか?実はこれは、キリエの処置道具にあらかじめ治癒魔法が込められていることに起因する。
キリエの目的はあくまで受刑者に最大限の苦痛を与えることであるため、受刑者を死なせてしまっては元も子もない。
そのため、あらかじめ処置道具に治癒魔法をかけておくことにより、出血やダメージを最小限に抑えるようにしているのだ。
もっとも、その治癒魔法はあくまで傷口を塞いで血管をつなぐ程度のもので、失われた部位を再生することはできない。
つまりまとめるとこういうことだ。
・受刑者は、最大限の苦痛を味わいつつも決して死ぬことはない
・抜歯やその他の処置で失われた身体の部位は二度と戻らない
「さ、て、と❤︎」
見下ろすキリエ。
ムータロの胸にはもう悪い予感しかない。
「次が、今日のクライマックスだね」
キリエが、内側にブレードのついたリング型器具を手にとってムータロに見せつける。
数は四個。そのうち二個は小さめで、別の二個はやや大きめ。
理性ではその用途をすでにうすうす察しているムータロ。だが、感情がそれを認めるのを拒絶していた。
「な、なんにふかうんら⋯⋯(な、何に使うんだ)」
歯がなくなった為、口枷は外されている。入れ歯の外れた老人のような滑舌でムータロは問うた。
「ふふ、分かってるくせに。それとも本当にわからないのかな?鈍い子は好きじゃないよ❤︎」
続けて言う。
「いいわ、教えてあげる。今から、キミの手足を切るわ。このリングでね❤︎」
誤解の余地などないキリエの宣告!
現実乖離症状を起こしたムータロの感情も、ここまではっきり告げられればもはや現実を認めざるを得ない!
キリエがリング型器具をムータロの両肘上と両膝上に容赦無く装着!
「フガァァァァァァッッッッ!!!!アアアアアアアアアアアッッ!!!!!」
恐慌を来たすムータロ!
「それじゃ、はじめよっか。最大限に泣き叫んでいいからね❤︎」
キリエがムータロの両手足のリング型器具を操作すると、内側のブレードの径が狭まり始めた!このブレードが完全に閉じきった時、ムータロは彼の四肢に永遠の別れを告げることになるのだ!
†††
(ギリギリ⋯⋯ギリギリ⋯⋯)
「ンゴァァァアァッッッ、ンッ、ンンンッ!!!アアアッッ⋯⋯!!!!!」
開始から五分、顔面を真っ赤にして苦悶の表情で耐えるムータロ!
リング型器具は残酷な緩慢さでそのブレードの径を狭めていく!
†††
開始から十分が経過!
「あぼぼぼぼぼぼぼ!!!おぼぼぼぼぼぼっっ!!!」
真っ赤な顔で泡を吹き、痙攣し白目を剥きながら耐えるムータロ!
「頑張れ、ムータロくん!ファイトー❤︎」
キリエはそんなムータロを応援!時折ガーゼで彼の額の脂汗を拭ってあげている!
†††
そしてムータロにとっては永劫にも等しい十五分が過ぎ!
(ギリッ、ギリリリリッッ⋯⋯バキッ、バキム!!!)
「アッ、アキャァァァァァァァァァァァァァァァァッッッッッッ!!!!」
リングの径がゼロになるとともに、ムータロ今日一番の絶叫が響き渡った⋯⋯!
これで抜歯に続き、四肢切断が完了した。
両手足の切断面の出血はほどんど無く、切り株めいた痕が残っているのみだ。
抜歯器具と同じく、リング型器具にも治癒魔法が込められていた為だ。
「ハァッ、ハァッ⋯⋯ハァッ、ハァッ⋯⋯」
ムータロの顔から徐々に赤みが引いていき、呼吸も平静になっていく。
今の彼にとっては、四肢が切断されたということよりも、苦痛から解放されたことが大きかった。
そんなムータロの顔を優しく撫でるキリエ。
「今日の処置は終わりだよ。頑張ったじゃん⋯⋯」
それはまるで不出来な弟を労わる姉のような声音。
この声だけを聞けば、ムータロにかような恐ろしい処置を施した処刑官とはとても思えない。
キリエに優しく撫でられながら、極限の苦痛から解放されたムータロの意識は心地よい眠りの闇へと堕ちていく。
初めに注射された鋭敏剤も効果がほぼ切れていた。
キリエはムータロの拘束帯を外し、眠りへ落ちつつある彼を、まるで我が子のように胸に抱きかかえると、そのまましばし、その寝落ち寸前の顔を眺める。
そうしているとふいに、下腹部方面からの衝動がこみ上げてくる。
可愛い寝顔⋯⋯。
この子はもう、私なしでは何もできない。
歩くことも、道具を使うことも、舌を噛み切ることも。
だから、全部私が面倒見てあげる。
たくさん処置して、たくさん泣かせて、たくさん世話を焼いて、たくさん甘えさせて、キミの世界を私だけにしてあげる⋯⋯。
下腹部から脳髄に迫り上がる閃光のような快感。
ピッグスを胸に抱いた美貌のエリニュスの灰色の瞳は今や赤く染まり爛々と輝いている。
美しく蕩けるその顔に、ふと一筋の赤い線が流れた。
(ん?)
鼻から上唇に液体が流れる感覚。舌先で舐め取ると、鉄の味。
(う、やべっ、鼻血⋯⋯!)
手近なガーゼで慌てて鼻血を拭き取るキリエ。
(いけない、いけない、興奮しすぎでしょ、私。クールダウンしなきゃ⋯⋯)
瞑目して一呼吸。
再度目を開けた時には、その瞳は落ち着いたグレーに戻っていた。
(よし。さて、今日はあとは受刑者拘留室ゲストルームに連れてってご飯つくって食べさせて⋯⋯と)
これからの段取りを頭に描きながら、ムータロを抱いたキリエは処置室を出た。
Act.6 食事
明るさで、目が覚めた。
天井に灯るシャンデリアの柔らかな白い光。
暑くもなく寒くもない、心地よい温度。
仰向けに横たわるムータロの背中を包み込むふかふかの感触。
「あ、ムータロくん、起きた?」
レア魔獣の体毛をふんだんに使用した高級ベッドで目覚めたムータロに、部屋の端のキッチンにいたキリエが声をかける。
「うっ、うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!やっ、やめれっ、たふけれっっ!!!」
キリエの声を聞いたムータロは半ば反射的に恐慌を来たす!
短くなってしまった手足をバタバタさせてベッドから転がり落ちる!
「ああっ、ほら危ないよ!大丈夫だから落ち着いて!」
駆け寄るキリエ。
床に丸まった防御姿勢で震えるムータロ。キリエはその背中をフェザータッチで撫でる。
「大丈夫だよ⋯⋯今は刑の時間じゃないから。ね⋯⋯?」
「うぁぁぁぁっっ!ゆっ、ゆるひてっ!ああああああ!!!」
それでも恐慌の治まらないムータロ。
キリエは”仕方ないな”という顔でムータロを抱き上げると、ベッドに腰掛ける。
そして、あたかも授乳のごとく、そのブラウスの胸に泣きわめくムータロの顔を抱いた。
「ね、ほら、大丈夫⋯⋯怖くない⋯⋯」
さらに背中をさすって呼吸をなだめにかかる。
「さ、お鼻でゆっくり⋯⋯すぅーーーーっ、はぁーーーーっ⋯⋯すぅーーーーっ、はぁーーーっ⋯⋯」
キリエの胸で呼吸を繰り返しているうち、ムータロの恐慌は急速に引いていった。
あ、ああ、そうだ、きっと大丈夫なのだ。先ほどキリエも「今は刑の時間ではない」と言っていたのだし⋯⋯。
それにしても、キリエから香るこのえもいわれぬ心地よい芳香は何だろう⋯⋯まるで、嗅覚を通して脳神経を直接慰撫されているかのようだ⋯⋯
「んすぅーーーーーっ⋯⋯んすぅーーーーーーっっっ⋯⋯んすぅーーーーーーーっ⋯⋯」
さらに呼吸を繰り返すうち、ムータロの心の一部が麻痺したかのように、抜歯と四肢切断という無残すぎる自分の状態のことさえも、思考から追い払われていった。
代わりに心を占めたのは、あたかも母に抱かれる赤子になったかのような安心感。
「ン、落ち着いてきたね。ところでムータロくん、お腹空いてるよね?」
「は、はい、はらぺこれしゅ⋯⋯」
自分でも驚くほどの「甘えん坊」的口調で答えるムータロ。
(お、おれはどうしちまったんだ⋯⋯なんかもう、このひとにぜんぶ身を委ねて壊されてもいい⋯⋯)
「ふふ、キミは香りへの感受性が強いみたいだね❤︎」
ふいに、文脈の繋がらないことを言うキリエ。
「か⋯⋯かおり⋯⋯?」
意味が分からず聞き返すムータロ。
「ううん、いいの。何でもないよ。さ、ご飯にしよ!」
キリエはムータロをベッドに寝かせると、部屋の端のキッチンに行き、二つの皿と水差しひとつの乗った給仕カートを押しながら戻ってきた。
「今日のご飯は、コッカトリス肉ハンバーグとデビルロブスターのビスク、食後のデザートにココナッツミルクプリンだよ。あ、歯がなくても食べやすくしてあるから安心してね❤︎」
少女のような笑顔でキリエが言う。
彼女は料理好きだった。このムータロ用の食事ももちろん、彼女が精魂込めて作った手料理である。
キリエはベッドに腰掛けムータロを膝枕した。
「はい、あーん」
コッカトリス肉ハンバーグを一口よそったスプーンがムータロの歯のない口内へ差し込まれる。
ムータロの唇がそれを食むと、キリエがゆっくりスプーンが抜く。
ムータロは舌と上顎で咀嚼する。柔らかく調理されたハンバーグはたやすく潰れ、彼の口内にジューシーな肉汁がジュンワリと広がった。
(もにゅもにゅ⋯⋯ゴクン。ん⋯⋯んまい!これはまじでんまい!)
「どう?口に合ったかな⋯⋯?」
少し心配そうにキリエが言う。
「は、はい、おいひいれひゅっ!ひゅんごくおいひいっ!」
ムータロは嘘偽りなく本心から言った。
「そっか、よかった。たくさん作ったからどんどん食べてね❤︎」
キリエは、本当に嬉しそうに笑った。
Act.7 オムツの中
ココナッツミルクプリンの最後の一口を食べ終えたムータロは、何年かぶりの満腹感を味わっていた。そして満腹感もさることながら、膝枕で準密着したキリエから香るえもいわれぬよい芳香が、ムータロをさらなるヘブン状態へと誘っていた。満腹の至福感とその芳香とのコラボレーションは、ムータロの中にもう一つの本能的欲求を湧き立たせた。
下半身のある部位に血が集まり、それは徐々に屹立していく。そしてあたかも自らの意思を持っているかのように、彼の分身はオムツの前を突き破らんと激しく主張しはじめた。
キリエに悟られまいと、さりげなく体を横にしてオムツの前を死角にしようとするムータロ。
しかし、処刑官として職務をこなす中で磨かれたキリエの観察眼は、ムータロの体のいかなる微細な変化も見逃すはずがなかった。
「そうだ、忘れてた。オムツ替えてあげるね❤︎」
にんまり笑ってキリエが言う。無論これは、ムータロの動揺や狼狽を観察するための、いじわるな意図的婉曲である!
そしてキリエの思惑通り、大いに狼狽するムータロ!
「も、もらひてないれふ!おひっこもうんこもでないでふ!おむつかえなくてだいじょうぶれふ!」
「本当に?事前処置のとき、あんなにいきんで泣いてたでしょう?」
「ほ、ほんとにだいじょうぶれふぅ⋯⋯!あっ、あっ、やめてくらはい!」
「ふふ、だーめ。ほら、オムツの中見せてごらん!」
嫌がってベッドの上を這って逃走するムータロをふんづかまえ、無理やりオムツをひっぺがすキリエ!
「ほらぁ、やっぱりうんちが漏れちゃってるじゃない。それに⋯⋯あらあら、これはどうしたのかなぁ。大きくなって、ピクピクしてるよ❤︎」
「うぅぅ⋯⋯あぁぁぁ⋯⋯ご、ごめんなふぁい⋯⋯うっ、うっ⋯⋯」
堪え難い羞恥と、キリエを怒らせてしまったのかもしれないという恐怖で泣き出すムータロ。
そんなムータロの頭をキリエは優しく胸に抱き寄せる。
「いいよ⋯⋯。男の子だもんね。」
優しい声音で言う。続けて、
「私に欲情したの?」
ストレートな問い。
「は、はい⋯⋯」
ムータロは素直に答えた。
「私のどこに?」
「ひ、ひざまくらで、ず、ずっと、いいにおいがひてて⋯⋯おなかいっぱいでかいでたら、お、おれ、なんかきもひよくなって⋯⋯」
恥ずかしそうに答えるムータロ。
「そっかぁ⋯⋯膝枕でいい匂いがして、それが良かったんだ。ふーん⋯⋯」
「じゃあ、素直に答えたご褒美に、明日はすごくいいことをしてあげる。楽しみにしてなさい❤︎」
今日はもう寝なさい。事前処置を頑張って疲れたでしょう。
そんな言葉をかけて、キリエはムータロを寝かしつけた。
Act.1 無力
”管理局”の地下七階、処刑官キリエ専用フロア。
そのフロア内の一室、”受刑者拘留室ゲストルーム”。
レア魔獣の体毛をふんだんに使用した高級ベッドで目覚めたムータロ。
オムツ一丁の裸身である。
彼はすぐに、あることを確認するために腹筋で体を起こした。
確認結果は残酷だった。
その両腕はあまりにも短かった。
そしてその両脚も、あまりにも短かった。
「あ、あああ⋯⋯」
肩を震わせて失望のうめきを漏らすムータロ。
夢では無かったのだ。
彼の四肢は両肘上と両膝上で切断されていた。
昨日、処刑にあたっての”事前処置”として、”ムータロを管理しやすく”するために、処刑官キリエによって切断されたのだ。
管理局に捕らえられた以上、自分が生還することはない。
そういう意味では、もう失うものなどないのだ。
それでもしかし、レジスタンスとして長年にわたって鍛え上げた肉体がこのような無残な状態にされたことに対して、ショックを受けずにいることはできなかった。
例えば万が一、本当に万が一だが、管理局から生還できたとしよう。
だとしても、この体で一体どう生きろというのだ?
朝起きて、顔を洗う。
服を着て、カップの水を飲む。
排便し、尻を拭う。
掃除する。歩く。体を洗う。料理する。食う。
そんな当たり前の動作が、自分にはもう二度とできないのだ。
心を侵食してくる絶望感。
だめだ、飲まれてはならない。
ムータロは絶望への哲学的論破を試みる。
⋯⋯俺は未来への希望を捨てきれていない。きっとそれがよくないのだ。
俺が管理局から生還することはない。未来などないのだ。未来がないのだから、未来へ絶望など無意味だ⋯⋯。
(それに、俺はレジスタンス、ムータロ⋯⋯! 手足を失った程度で戦いをやめるわけにはいかない⋯⋯⋯!)
そうだ、絶望など時間の無駄だ。
命ある限り最善を尽くすのみ。それ以外は自分には不要だ。
さあ、まずはキリエ不在と思われるこの隙に、部屋の中を見て回り、わずかでも一矢報いるチャンスが無いかを探るのだ。
決断的に負の感情を放棄したムータロは、目に力を入れ、腹ばいになり、ベッドの上を這って進み、縁から床に降りようとした。しかし、そこにひとつの問題が立ちふさがった。
(こ、このベッド⋯⋯!)
ベッドが高いのだ。
おそらく1.5メートルほどはあるのではないだろうか?
昨日はこれほど高くはなかったはずだが、どうやら脚の高さを調節できるタイプらしかった。
確かに、身体機能を失った受刑者を寝かせるという前提で考えてみれば、そういった介助機能がついていても不思議ではない。
例えば昨日のように膝枕で食事をとらせるようなときは低くでき、看病や介抱、その他の世話をするときは看護者の身長に合わせて高くできるのだろう。
(こっ、このおせっかい機能ベッドめ! どうする、降りれるか⋯⋯?)
例え五体満足だったとしても、身長90センチのちんちくりんのピッグスであるムータロでは、この高さではジャンプして降りることになるだろう。ましてや手足を失った今、それはことさら難事であった。
通常、高いところから降りる時というのは、何かにつかまりながら足の方から体を下ろし、可能な限り高さを殺してから飛び、脚を使ってうまく衝撃を和らげるものだ。
だが、ムータロはもう何かにつかまることはできない。
衝撃を和らげる脚もない。
ではどうする?こうだ。ギリギリまでベッド上に重心をキープし、そこからダイブする。そして受け身をとって可能な限り軟着陸するのだ。
(慎重に⋯⋯足のほうからゆっくりとだ⋯⋯)
ベッド縁でギリギリの重心移動を行うムータロ。
(もう少し、もう少しだ⋯⋯よし。ここから飛ぶぞ⋯⋯!)
ムータロが意を決して飛ぼうとした瞬間だった。
ズルリッ!
ベッドの高級素材のなめらかさが災いし滑るムータロ!
そのまま足のほうから1.5メートル下へ落下!
(ッ! しまっ⋯⋯!)
ズゴシ!
切り株めいたムータロの脚断面がもろに石床に激突!
「くぁぁぁぁぁーーーっっ!!!!」痛恨!
硬い石床に脚の断面を強打したのである。尋常な痛みであるはずがない。
(ぐぁーーーーっ! いっ、いでぇーーーーっっっ!)
思わず歯を食いしばって耐えようとするムータロ! しかし、
ぶにゅっ。
(あれっ???)
予期した硬質な感触は無く、代わりにぶにゅっと柔らかい感触。
そうだった、手足に気を取られて忘れていたが、自分にはもう⋯⋯
(⋯⋯食いしばる歯もないんだった⋯⋯)
四肢と同じく、昨日の事前処置で歯も全て抜かれていた。
噛みつきによる抵抗や舌を噛み切っての自殺を防ぐためだ。
四肢切断、そして全抜歯。
あまりにも無残で無力な現実を、痛みを伴って再認識させられたムータロ。
心の堤防が脆くも決壊し、氾濫する泥色の洪水めいて感情がせりあがる。
「ひぐっ⋯ひぐっ⋯あああ⋯⋯あっ、あああああああっ!!!! あああああああああああああっっっ!!!!!! うああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
冷たく磨かれた石床に写った自らの顔に向かって、震えながら絶望の嗚咽をあげるムータロ。
いっそのこと、先ほど頭から落ちてしまえばよかった。そうすれば今頃はもう全てから解放されていたかもしれない。そんな考えすら胸をよぎる。
その時だった。
「ムータロくーん、おはよー❤︎」
ビクゥ!
部屋入り口方向から聞こえたその声を聞いて、ムータロの体は反射的に強張った。
ムータロをこのような絶望に突き込んだ張本人。
拷問の女神キリエ、入室である。
Act.2 首輪とブーツ
キリエ。
希少種エリニュスであり、ムータロを担当する管理局の処刑官である。
2メートルを超えているであろう細身の長身。
その3分の2を占めるに迫る長く形の良い美脚。
くびれた腰つき。キュッとしたお尻。
骨格自体が細いため痩せているように見える胴体。控えめな胸。
しなやかで柔らかそうな腕。長い指。
小ぶりな頭部。12頭身ほどあるだろうか。
白皙の小顔。涼やかな目元、グレーの瞳。細く筋の通った鼻。尖った耳。小さく整った赤い唇、艶黒子。
ポニーテールにまとめられた、美しい黒髪。
そしてその身に纏う異装。
フロント編み上げタイプの、黒いタイトフィットの魔獣皮製サイハイブーツ。踵はシルバーのピンヒール。
黒のガーターストッキング。太もも部分に赤い十字があしらわれている。
黒いタイトフィットの魔獣革製コルセットと、それに付属した黒のプリーツマイクロミニスカート。
白い上品なブラウス。その両肩に赤い十字の刺繍。
首元を飾る、細身のフェミニンな赤いリボンタイ。
黒いタイトフィットの魔獣革製ロンググローブ。
ナースキャップのようなデザインの小さめの魔獣皮製帽子。前面には赤い十字マーク。
そんなこの世のものとは思えぬ外見の彼女だが、ベッド下でうずくまるムータロを見るなり、意外なほど普通の女子な口調でこう言った。
「ちょ、ムータロくん、大丈夫? どうしたの?」
「よ、よっと(ちょっと)へやをはんぽ(さんぽ)ひようと⋯⋯」
事前に準備していた言い訳を言うムータロ。
歯が全て抜かれているためフガフガの口調である。
言い訳の内容に嘘はない。
そしてムータロは、キリエという処刑官は刑の時間とそれ以外をきっちり分けるタイプだと踏んでいた。
だからこそ部屋の中を探索しようという気になったのである。
それでもやはり、どんなリアクションが返ってくるか少し不安ではあった。
だが、言い訳を聞いたキリエは、心配するムータロをよそに、なぜか感心したようにこう言った。
「そうなんだ⋯⋯。偉い子だよ、ムータロくん。私に言われないうちから四足歩行の訓練を自ら始めるなんて⋯⋯」
(ん、四足歩行? それは一体⋯⋯)
キリエが発したそのワードに何やら不穏な響きを感じ取るムータロ。
そんなムータロの内心の動揺を知ってか知らずか、さらにキリエは感極まったように手で鼻と口を覆う。その姿はあたかも、不出来な生徒の更生に感動する若い熱血女教師のようであった。
「ムータロくん、キミの気持ち、受け取ったわ! 今日は四足歩行訓練から始めましょう! 道具を持ってくるから、ここで待っててね!」
ま、まずい。何だか知らんがキリエをすごくやる気にさせてしまったようだ。
出入り口のドアが閉まるのを見届けつつ、ムータロは冷や汗を流して後悔した。
再び部屋に一人。
どうする? 部屋の探索をするか?
いや、やめておこう。
キリエは先ほど”ここで待っててね”と言って出ていったのだ。
戻ってきたときにここで待っていなかったら彼女の機嫌を損ねてしまう恐れがある。
そして先ほどの張り切った様子からすると、すぐに戻ってきそうな気配もある。
やはりここはおとなしく待つのがベターだろう⋯⋯
† † †
「お待たせー❤︎」
果たしてムータロの予期どおり、ものの数分とかからずキリエは戻ってきた。
その手には、黒い魔獣皮革とシルバーのチェーンでできた何かが携えられている。
「ほ⋯ほれは⋯⋯⋯?」
不安げに見上げて問うムータロ。
「これ? ”四足歩行訓練用”の首輪だよ。さ、つけてあげるね❤︎」
そう言うと、ムータロに手際よく首輪を装着!
首輪はかなりタイトで、つけているだけで顔面に軽いうっ血を感じるほどだ。
思わず声を漏らすムータロ。
「くっ、くうぅ⋯⋯!」
キリエはそんなムータロの様子を見下ろして微笑む。
「うん、サイズぴったりだね。あと、”四足歩行”しやすいように、オムツは取っておくね」
そう言ってキリエはムータロのオムツに手をかける。
オムツには排泄物が付着しているが、さして気にした様子もない。
キリエは淡々と手に取ってそれを丸めると、部屋の隅のダストボックスに廃棄した。
「それじゃ最後に⋯⋯っと」
キリエは、ムータロの首輪から伸びるシルバーのリードを、自身の魔獣皮製サイハイブーツの左膝のあたりに接続!
「よし、準備完了! ふふ、それじゃ行こっか❤︎」
部屋の出口へ歩き出すキリエ。
ムータロは四足歩行で遅れないようについていく。
少しでもキリエの脚への追従が遅れると、リードが張って、首輪で頚動脈が締まってしまうのだ。
長身美女の足元でせわしなく四足を動かすムータロ。
その姿は、さながら小型犬のようであった。
Act.3 四足歩行
受刑者拘留室ゲストルームを出ると、そこは長い廊下だった。
石造りで、長さは百メートル弱か。いくつもの金属扉が並んでいる。
中程には左に直角に折れる分岐道があるので、全体としてはT字型の作りをしている。
この廊下には見覚えがあった。
昨日自分はこの廊下を、移動式拘束架でキャリーバッグのように引かれて、T字の左翼側の一室、”処置室”へと連行されたのだ。そしてどうやら今まで自分がいたのは、T字の最右翼部分の部屋だったようだ。
キリエが廊下を歩き出す。彼女の歩みに合わせて、ムータロは小型犬めいたせわしさで両手足を動かして付いてゆく。
廊下を進むにつれ、ムータロの歩みがわずかに遅くなる。
歩き始めたばかりである。もちろん疲労ではない。
ではなぜか?
理由は、ある部屋に近づいていっていることにあった。
そう、”処置室”である。無麻酔かつ鋭敏剤使用の上での四肢切断&全抜歯という苛烈な処置がつい昨日おこなわれた部屋である。そこに近づく歩みが遅くなるのは、無理からぬことではあった。
「大丈夫だよ。処置室には行かないから❤︎」
首輪からリードを通して左足のブーツに伝わるムータロの歩行のためらいを察し、キリエが顔を前に向けたまま独り言のように言った。
キリエの言葉にホッとするムータロ。同時に、見透かされていることへの恐れと屈辱を感じる。
だが自分の心に構っている時ではない。
とにかく今は、キリエの歩行ペースに確実について行く。そして反撃のチャンスを探るのだ。
処置室を過ぎ、他のいくつかの部屋の前を過ぎ、やがてT字型廊下の最左翼部分の扉の前に到着した。
キリエが操作すると、扉が重い音を立てて開きはじめる。
ゴゴゴゴゴゴ⋯⋯
扉の向こうは、また廊下になっていた。かなり長い直進だ。突き当たりまで二百メートルほどあるのではないだろうか?天井の蛍光魔力灯が、磨かれた石床を等間隔に照らしている。
「さてと。それじゃここからは四足歩行訓練コースだからね。一生懸命私について来るのよ❤︎」
† † †
訓練コースを歩き出すキリエ。先ほどまでよりも速度が速い。
ムータロは四足歩行の回転数を上げる。
腕脚の断面に触れる石床が冷たい。
四つ足の状態で前を向くためには顔を上げていなければならないため、首と肩の筋肉が辛い。
(く、これは想像以上にきつそうだ⋯⋯)
ムータロは心の中で独りごちる。
直進すること二百メートルほど。
突き当たりを左折すると、また長い直進だった。
その突き当たりを右折すると、またまた長い直進。
その突き当たりを右折すると、これまた長い直進。
その突き当たりを左折し、やはりこれも長い直進。
その突き当たりを左折すると、今度も長い直進。
その突き当たりを右折、ああ、また長い直進⋯⋯!
その突き当たりを⋯⋯⋯⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯
⋯⋯。
† † †
開始から三十分が経過した。
(くそ⋯⋯また同じ景色⋯⋯いつ終わるんだ⋯⋯⋯!?)
繰り返される単調さは徐々にムータロの精神を苛んでいく。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ⋯⋯!」
ムータロは息が上がってきている。床に当たる腕脚の断面も痛む。
しかしキリエについて行くためには四足歩行の回転を緩めることはできない。
もし倒れ込んだりして彼女の歩みを乱そうものなら、一体どんな罰を受けるか分からない。
(くそ、おれは怯えているのか? このエリニュスに罰を受けることを?)
自問するムータロ。
(いや、違う、今はあえて従順にしているだけだ。反撃の糸口を掴むために⋯⋯!)
自答するムータロ。
だがすぐに、思考を振り払って四足歩行に集中し直す。
キリエのペースはかなり速い。というより、ストライドが異常に長いのだ。
したがって、彼女にとってはちょっとした早足程度であっても、ムータロとしては、かなりせわしないピッチでの四足歩行、いや”四足走行”を強いられることになる。
もうひとつ苦しいのは、「ムータロの首輪がキリエの左足サイハイブーツに短いリードで接続されている」という点だ。
キリエは当然二足歩行なので、両足を交互に前に出す。キリエの歩行を乱さないようにそれについて行くためにムータロは、彼女が左足を前に出す際はスピードを速め、右足を前に出す際はスピードを緩めなければならない。
一定のペースを許されないというのは、長時間の持久性運動にとって致命的である。
そしてそれに加えキリエは、歩行ペースアップダウンの波をムータロが体で覚えることができないよう、時々わざと歩調を乱したりもするのだ⋯⋯!
† † †
開始から四十五分が経過。
繰り返される同じ光景。長い直進と右折と左折。
キリエの歩くスピードは相変わらず速い。
ムータロは懸命に食らいついていく。
ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ⋯⋯!
突き当たり、左折、直進。
ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ⋯⋯!
突き当たり、右折、直進。
ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ⋯⋯!
突き当たり、右折、直進。
ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ、ゼッ、ハッ⋯⋯!
突き当たり、左折、直進。
ああ、一体いつまで「突き当たって折れて直進」を繰り返せば良いのだろう!
(くそったれが⋯⋯! どこまで続くんだよ、この、くそ廊下っ⋯⋯!)
鍛え抜いた心肺機能には絶大な自信を持つムータロだが、それでも徐々に、じわじわと、確実に限界が近づいてきているのを感じていた。
キリエの歩行が止まる様子は、一向にない。
† † †
開始から一時間が経過。
(く⋯⋯くるしい⋯⋯もうこれ以上⋯⋯で、出口は⋯⋯まだかよ⋯⋯⋯⋯!?)
ムータロの呼吸はいよいよ浅く早く、歯のない口からは泡を吐き散らし、心臓は早鐘のように耳元で鳴り響いている。
すでに体力は限界に達し、もはや気力のみで四足歩行を続けているような状態だった。
今度こそ、あの突き当たりを折れれば出口の扉が見えるのではないか?
何度もそう思い、その度に同じ景色に失望してきた。
いま彼の気力を支えているものは何か?
レジスタンスのプライドか?
生来の負けん気か?
反撃の意思か?
それともやはり、
(俺はキリエこいつが怖い⋯⋯のか?)
† † †
開始から一時間十五分が経過。
ここまで懸命に食らいついてきたムータロ。
だが、ついにその時は来た。
極限の心肺的苦痛が、キリエへの恐怖を上回ったのだ。
(も、もう⋯⋯だめ⋯⋯)
ズシャァッ!!
ムータロは顔面から倒れこんだ。
全身に汗と血管を浮き立たせ、うつ伏せで顔をしかめて苦しげに息をする。
「ハヒュッ、ハヒュッ⋯、ガヒュッ! ハヒュッ! ハヒュッ⋯⋯!」
束の間の休息。
それはすぐに、激痛とともに破られた。
ビュッ! という風を切る音が聞こえたと思った次の瞬間、
ビシィッッッッ!!!!!!!
「アッ、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!!」
うつ伏せの尻に走る激烈な熱感にムータロは絶叫!
海老反りになって天を仰ぐと、そこには怒りに燃えて見下ろすキリエの赤い瞳!
そして彼女の左手にいつのまにか握られているのは魔獣馴致用ライディングウィップ! これが今の激痛の正体か!
「誰が休んでいいって言ったのかな? ほら、立ち上がるまで鞭を入れ続けるわよ!」
キリエの残酷な宣告! 振り下ろされる鞭!
ビシィッッッッ!!!!!!!
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!!」
バシィッッッッ!!!!!!!
「むぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!!」
ズビシィッッッッ!!!!!!!!!
「ほぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!!!!!」
ズバシィッッッッ!!!!!!!!
「んきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーー!!!!!!!!」
キリエは無慈悲に鞭を連打!
ムータロは打たれるたびに海老反りになって多彩な絶叫!
嵐のような鞭の中、それでもムータロは少しずつ息を整え、やがてなんとか四足で立ち上がる!
それをムータロの訓練続行の意思と認め、キリエは鞭嵐を止めた。
「さ、続けるわよ」
鬼コーチめいたキリエの端的で冷酷な宣告。
「ぜひゅっ、ぜひゅっ、かひゅっ、はひゅっ⋯⋯!」
息を整えるのにいっぱいいっぱいのムータロ。
「返事は!?」
「はっ、ハイィッ!」
キリエは歩行を再開!
ムータロは彼女の左脚の動きに集中して一生懸命四足歩行でついていく!
そして再び繰り返される「突き当たって折れて直進」地獄!
直進、突き当たって右折。直進、突き当たって右折。直進、突き当たって左折。
直進、突き当たって左折。直進、突き当たって右折。直進、突き当たって右折。
直進、突き当たって左折。直進、突き当たって右折。直進、突き当たって左折。
直進、突き当たって右折。直進、突き当たって⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯⋯
⋯⋯。
† † †
訓練再開から十五分。
(やっぱ⋯⋯も、もう⋯⋯だめ⋯だ)
ズシャァッ!!
ムータロはまたしても顔面から倒れこんでしまった。
鞭傷だらけの無残な背中を晒しながら、うつ伏せで顔をしかめて苦しげに息をする!
「ハヒュッ、ハヒュッ⋯、ガヒュッ! ハヒュッ! ハヒュッ⋯⋯!」
束の間の休息。
それはまたしても激痛とともに破られた。
ビュッ! という風を切る音が聞こえたと思った次の瞬間、
ビシィッッッッ!!!!!!!
「アッ、びゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!!」
うつ伏せの尻に走る激烈な熱感にムータロは絶叫!
デジャビュ的な何かを感じながら海老反りで天を仰ぐと、そこにはやはり、怒りに燃えて見下ろすキリエの赤い瞳!
そして彼女の左手に握られているのはやはり、魔獣馴致用ライディングウィップ!
「2回目だよ? そして何、まるで背中を打ってくださいと言わんばかりのその海老反りは? だめよ、今度はもっと痛いお腹側を打ってあげる!」
キリエの残酷な宣告!
そしてうつ伏せのムータロを爪先で仰向けにひっくり返し、その首をピンヒールと土踏まずの隙間に挟んで固定!
オーバーハンドから振り下ろされる鞭!
ビシィッッッッ!!!!!!!
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!!」
バシィッッッッ!!!!!!!
「むきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっっっ!!!!!!!!」
ズビシィッッッッ!!!!!!!!!
「ほぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーー!!!!!!!!」
ズバシィッッッッ!!!!!!!!
「ぶひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーー!!!!!!!!」
キリエは仰向けのムータロの無防備な胸と腹に無慈悲に鞭を連打!
切断された手足ではそれを防御することも叶わず、ムータロは多彩な絶叫!
嵐のような鞭に悶絶しながら、それでもムータロは少しずつ息を整え、やがて四足で立ち上がろうとする動きを見せた。それをムータロの訓練続行の意思と認めたキリエは、鞭嵐を止め、ピンヒールの靴底からムータロの首を解放した。
「次は無いわよ」
鬼コーチめいたキリエの端的で冷酷な宣告!
「はっ、ハイィッ!」
キリエは歩行を再開!
ムータロは彼女の左脚の動きに集中して一生懸命四足歩行でついていく!
そして再び繰り返される「突き当たって折れて直進」地獄!
直進、突き当たって右折。直進、突き当たって右折。直進、突き当たって左折。
直進、突き当たって左折。直進、突き当たって右折。直進、突き当たって右折。
直進、突き当たって左折。直進、突き当たって右折。直進、突き当たって左折。
直進、突き当たって右折。直進、突き当たって左折。直進、突き当たって右折。
直進、突き当たって右折。直進、突き当たって⋯⋯⋯⋯
† † †
⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯⋯⋯
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯
幾度繰り返したことだろう。
いつしかムータロは心肺の苦痛が消え去り、不思議な感覚に包まれていった。
キリエの脚以外が視界からブラックアウトしていく。そして動きがやたらとスローモーションに見えてくる。
自分の体の感覚が無くなり、その代わりに、キリエの脚を包むサイハイブーツの心地よいフィット感や、ヒールを通して踵に伝わる石床の感触が、あたかも自分の感覚であるかのように感じられてきた。
まるでキリエの脚と自分が一体化したかのようだった。
キリエの脚がもはや自分であり、自分がもはやキリエの脚だった。
今までの苦しさは一体なんだったのだろう。
ムータロはもう、このまま何時間でも四足歩行できそうに思えた。
しかし、処刑官の見解は違っていた。
(四足歩行恍惚状態ランナーズハイに入ってるわね。このあたりが限界かな)
キリエは直進の突き当たりで歩みを止めた。
そして突き当たった壁に向けて手をかざす。
すると、ただの壁に見えていたところに扉が出現し、右折路に見えていたところがただの壁になった。
これは一体いかなることか?
実はこの”訓練コース”はもともと、ただの一直線の行き止まりの廊下であり、それが幻覚魔術の結界によって”突き当たって折れて直進”に見えていたのである!
つまり、最初からゴールなど無かったのだ。
受刑者がギブアップするか、キリエのほうから切り上げるまで終わることのない刑だったのである。
そして今回の場合は後者であった。
(ああっ、もう、めっちゃ頑張るじゃんこの子。なんかますます可愛くなってきちゃったじゃない!)
ゴゴゴゴゴゴゴ⋯⋯⋯⋯
重い音を立てて、扉が開いていく。
開いた先はもちろん、もとのT字型廊下だった。
開始から二時間。
地獄の四足歩行訓練、”突き当たって折れて直進”は、受刑者の勝利で終了した。
Act.4 治癒術
「よく頑張ったじゃん。限界まで走りきった子は久しぶりだよ❤︎」
嬉しそうに褒めるキリエ。
その足元には、全身を鞭傷だらけにし、苦しげに喘鳴を上げるムータロ!
四足歩行恍惚状態ランナーズハイが解けたことで、極限の心肺的苦痛および鞭傷の痛みがぶり返しているのだ。
「ゼヒュゥッ、ゼヒュゥッ⋯! ゴホッ、ゴホッ! ゼェッ、ゼェッ、ゼェッ⋯⋯」
「いいよ、待っててあげるからゆっくり息を整えなさい」
四足歩行訓練時の鬼コーチ的厳しさは消え、再びいつものフランクな女子の口調に戻っている。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ⋯⋯ハァーッ⋯⋯スゥーッ⋯⋯」
息を整えるムータロ。
まだまだ苦しいが、だいぶ落ち着いてきた。
ところで、キリエは先ほど、”限界まで走りきったのは珍しい”旨のことを言っていた。ならばそもそも、ここまで無理して走る必要などあったのだろうか?そんな思いもよぎる。だが、続くキリエの言葉でその思いは打ち砕かれた。
「本当によかったわね。だって限界まで走らなかったら”処置室”行きだったもの❤︎」
「ゲフォォッ!!!!!! ゲホッ、ゲホッ!!!」
”処置室”というワードを聞いた途端、再度呼吸を乱すムータロ!
「あはははっ、そんなに処置室が怖いんだ。。。ごめんごめん、せっかく落ち着いてきたところだったのにね❤︎」
† † †
そして数分後。
ムータロの息が整うと、キリエは彼の首輪を外し、自らのブーツのリードも接続解除した。
「さて、治癒魔術を使うから、動かないでね」
四足歩行訓練を終えたムータロの全身はいまや、鞭傷の無い場所を探す方が難しいほどの状態であった。嵐のような鞭によって皮膚は破れ、血と組織液が滲み出し、場所によっては筋肉まで露出している有様だ。それでも致命的な血管や神経が無傷だったのは、ひとえにキリエの卓越した鞭スキルによるものだった。
瞑目して呼吸を鎮め、治癒魔術の詠唱を始めるキリエ。
慈悲深き<フローレンス>よ
私に其の力を貸し与え給え⋯⋯
凛とした冷たさと、どこか少女のような柔らかさの同居したキリエの声質。
ちなみに<フローレンス>とは、この世界で広く伝統的に信仰されている宗教における七神のうちの一柱で、医療、治療・治癒を司る女神だ。聖典によれば、彼女は古き世界で起きた大いなる災いの際、卓越した治癒魔術で多くの人々を救った。その後は魔術を使えぬ民のために物理的医療技術の研究にも尽力した。そして死後、神の一柱に迎えられたとされている。
この世界で育った者の例に漏れず、キリエも幼い頃から聖典を読み、七神の物語に少女の心を躍らせたものだ。その七神の中で特にお気に入りだったのが、自分と同じく治癒魔術を使うフローレンスだった。
そんなキリエの纏っている装いには必然、医療の神フローレンスの象徴たる”赤い十字”の意匠が盛り込まれている。
⋯⋯其の癒しの火よ、我が捧げ持ちし誓いの燭に宿り給え!
詠唱を終えると同時に、胸の前で何かを捧げもつようにして組んだ掌上に、キャンドルめいて光り揺らぐ魔力塊が謎の風圧とともに発生!そしてそれは赤く輝く魔力粒子状に徐々に分解し始め、キリエの手を流れるように包み込んでいった!
キリエは、ムータロの上にかがみこみ、彼の傷に手を当てる。
赤く輝く魔力粒子が傷口に流れ込んでいき、それらが新しい赤い血肉となってムータロの傷を塞いでいく!
「あああ⋯⋯ああああ⋯⋯」
治癒魔術が傷に流れ込む、その温かく優しい感覚に安息のあえぎを漏らすムータロ。
そうやってキリエは、ムータロの体の傷の深い場所から順々に”手当て”していった。
† † †
「ン、こんなもんかな」
治癒魔術を終えたキリエはふうっ、と額の汗をぬぐう。
そして、傷の治癒具合を確認する。その眉根がわずかにしかめられた。
ムータロの体には鞭痕の痛々しい引き攣れや、赤く盛り上がったミミズ状痕が残ってしまっていたのだ。
キリエの治癒魔術は現存するエリニュスの中では最高クラスに違いないし、そもそも治癒魔術を使える者自体が少ない。しかしそれでも、幼い頃の自分が描いていた理想、フローレンスに程遠い自分の治癒魔術に対しては、未だ使うたびに一抹の失望を禁じ得ない。
「あーあ、痕が残っちゃったね⋯⋯」
しゃがみこんでムータロのケロイド痕を指先で弄ぶようになぞりながらキリエが言う。
「でも、これはこれで嬉しいよ。だって、キミが頑張ってくれた証がその体に残るって事だもんね」
そう言うと、キリエは仰向けのムータロの頭頂部のところの床にぺたんと女の子座りした。そしてその膝にムータロの頭を抱き寄せる。そうすると、ちんちくりんのムータロの体はキリエの長い大腿部の間にすっぽりと収まってしまった。
「本当に頑張ったじゃん⋯⋯。私はキミができる子だって分かってたよ❤︎」
ムータロのソリッドな四角い顎を撫でながらキリエが言った。
「はい⋯⋯がんばりまひた⋯⋯」
準密着したキリエから香る独特の甘い香りを嗅ぎながら、ムータロは自分でも驚くほどの”甘えん坊的”口調で答えた。
昨日もそうだったが、このように近くでキリエの香りを嗅いでいると、なぜかそうなってしまうのだ。
そのまましばし、ピロートークめいたささやき合いを続ける二人。
四足歩行訓練は辛かった⋯⋯? はい⋯⋯。
鞭は痛かった⋯⋯? いたかったでふ⋯⋯。
そっか⋯⋯はい⋯⋯。
でも頑張ったじゃん⋯⋯がんばりまひた⋯⋯。
キリエのロンググローブ越しの長い指がムータロの額を優しく撫でる。
ヘブン状態に誘われていくムータロ。
数分ほどそうしていただろうか。
「よっ⋯と」
ムータロを胸に抱くと、キリエはそのまま立ち上がった。
そして、母親が赤ん坊をあやすような優しい口調で言う。
「じゃ、そろそろ次の刑にいこっか⋯⋯」
ビクゥッ!
その言葉に、胸の中のムータロが一瞬体を震わせた。その潤んだ目で、何かを哀願するようにキリエを見つめてくる。
キリエは、受刑するピッグス達のこんな目が大好きであった。
特にムータロは、くりっとした顔に大きな瞳で愛らしい。
(ああっ、もう! 可愛いんだから!)
「どうしたの?私の刑が怖いの?」
キリエが眉をハの字にした心配顔で問う。
「はい⋯⋯こわいでふ⋯⋯ううう⋯」
すっかり幼子のような顔と口調で、ムータロは答える。
「大丈夫だよ。次の刑はきっと辛いことじゃないから」
「ほ、ほんとに⋯⋯?」
「うん、ほんとだよ。だから、ね、いい子にしようね⋯⋯❤︎」
ムータロはキリエのブラウスに顔を埋め、か細く震えだした。
ムータロを胸に抱いたまま、キリエは歩き出した。
そして、T字型廊下の左翼側に並んだ扉のうちの一つの前で立ち止まる。
この部屋を使うのは久しぶりだ。
キリエは扉の前で、これからこの部屋でおこなう刑について思いを巡らす。
(久しぶりに”授香”したいって思える子に出会えたよ⋯⋯。ねえムータロくん、キミはどんな風に狂ってくれるのかな?)
胸の中のムータロはまだ、ブラウスに顔を埋めて震え続けていた。
Act.5 クイーンベスプ
「ふふ、この部屋を使うのはひさしぶりだな❤︎」
そう言うとキリエは、胸に抱いたムータロをそっと絨毯に下ろした。
キリエとの準密着状態が解けたことで彼女の香りが弱まる。
それによって若干正気が戻ってきたムータロは深呼吸を繰り返す。
「スゥーーーッ、ハァーーーッ、スゥーーーッ、ハァーーーッ⋯⋯」
(う⋯⋯こ、この部屋は⋯⋯?)
やがて十分にクリアな意識状態が戻ったムータロは、状況を探るべく室内を観察した。
広さは5メートル四方ほど。こじんまりとしている。
床は暗い赤の長毛絨毯。同じく暗い赤地の壁には、古代文字によると思しき呪術的文様。天井のシャンデリアと壁掛けの燭台が、暗く室内を照らしている。
静謐さと不気味さ。ゴシック的アトモスフィア。
そして部屋の中央には、椅子的形状の物体が床から生えていた。
そう、「生えていた」と形容したくなるような、奇妙な曲線的デザインと有機的質感。
座部の高さからするとエリニュス専用に設計されたものだろう。
奇妙なのは、座部が「円弧の下4分の1状」の形をしており、そのまま座っては尻がずり落ちそうに見える。
さらに、座部前方から中央にかけた股間のあたりに丸くスペースが空いており、球体状の何かをそこに嵌め込んで締め付けるような作りになっている。そして座部下方は、「カーブした脊椎とそれを囲む肋骨」もしくはある種の食虫植物──獲物が止まると葉が閉じられるタイプの──を連想させる捕獲拘束装置のような作りになっていた。
ムータロは推測する。
これが椅子だとするならば、座るのは当然キリエであろう。
そして座部下方のあれが捕獲拘束装置であるならば、拘束されるのは当然自分であろう!
それに拘束されたならば、装置の作り的に見て、自分の顔は座部の股間の丸いスペースから”こんにちわ”することになるだろう!
そしてそこにキリエが座るのならば、自分の顔面はキリエのスカートに覆われ、彼女の股間にタイトに埋め込まれてしまうことになるだろう⋯⋯!
(な、なんだ、この椅子は⋯⋯! くそ、一体何をするつもりなんだ!)
と、そこで、背後にそびえるキリエの気配がやけに静かなことに気づいてハッとするムータロ。
振り返って見上げると、にやけた瞳がこちらを見下ろしていた。
勘だが、おそらくキリエはわざとムータロに部屋を観察する時間を与えたのだろう。
あの椅子の用途をムータロに自分で気づかせるために。
そして、用途に気づいた時のムータロの様子を見るために。
「ねえムータロくん。私が昨日、キミが寝る前に言ったこと覚えてる?」
寝る前?
ムータロは記憶を辿る。そうだ、あの時キリエは確か⋯⋯
「あひたは、ごほうびで、い⋯いいことひてあげる⋯⋯って」
「お、ちゃんと覚えてたね。偉い子だ❤︎」
キリエは幼い子供に対して感心するような口調で言った。
そして続けてこう問う。
「私の匂い、好き?」
「は、はい、ふきれふ」
質問の文脈は測りかねたが、ムータロはとりあえず素直に答えた。ここで反抗しても意味はないし、確かに彼女の匂いはとてつもなくよい香りだと感じていた。
「そっか⋯⋯ありがと、うれしいよ」
キリエはなぜかうつむいて目を逸らし、少し恥ずかしそうに感謝を口にした。
その頬は、わずかに朱に染まっているようにも見えた。
だがやがて顔を上げると、またしても唐突にこんなことを問うた。
「ムータロくんは”クイーンベスプ”って虫を知ってるかな?」
知っていた。レジスタンスとして屋外サバイバルの訓練も行ってきたから、一通りの虫の知識はある。
クイーンベスプ。大型で希少な、足長蜂の一種だ。その生態は確か⋯⋯
「広い意味では、いわゆる乗っ取り蜂。でも普通の乗っ取り蜂とはずいぶん違っててね。普通の乗っ取り蜂は、乗っ取り対象コロニーに集団で侵入して、まず現住蜂の女王を殺す。そして、そのコロニーの匂いを体に染み込ませ、気づかれないうちにいつのまにか女王蜂に成り替わる。程なく現住蜂は全滅し、コロニー乗っ取りが完了する。クイーンベスプは違う。彼女は単騎で他種族の蜂のコロニーに侵入すると、自分の体から特殊な香り、学者達が”フェロモン”と呼ぶものを分泌してコロニー中に充満させる。フェロモンを摂取した現住蜂は、脳が変質してしまい、みんな奴隷のようになってしまって彼女に逆らえなくなる。そして自分たちの本来の女王を殺し、クイーンベスプを新しい女王様として受け入れる⋯⋯」
キリエは淡々とした口調だったが、どこか楽しそうだった。
この女は生き物が好きなのかもしれないな、とムータロは思った。
「他にも、とっても面白い生態があってね⋯⋯」
昆虫少女キリエの授業は続く。
クイーンベスプは子供を産めないの。
そもそも生殖器官すらないのよ。
ふふ、じゃあどうやってその種を存続しているのか?
それはね、乗っ取られたコロニーの現住蜂の幼虫の中から、次のクイーンベスプが生まれるの。クイーンベスプは、自分のフェロモンを混ぜた餌を作り、それを現住蜂の幼虫たちに食べさせる。すると、その幼虫たちの中から、ただ一匹だけクイーンベスプの成虫が生まれてくる。これってすごくない?全く違う種族の蜂の幼虫が、フェロモンの影響で、突然変異的にクイーンベスプになるのよ!?でね、さっきも言ったとおり、たくさんいる幼虫たちの中で、ただ一人だけがクイーンになるのだけど、じゃあ、クイーンになれなかった他の子たちはどうなると思う?
彼らはね、本来なるべき元の種族の姿とはかけ離れた姿で成虫になるわ。小さくて、ちんちくりんで、羽は潰れて飛ぶことはできず、頭は大きいのに足は弱くて短い。そしてその全てが雄蜂。彼らの存在理由はたった一つ。新しいクイーンベスプの餌になること。
本当に、グロテスクで、残酷で、フェティッシュな話よね。
コロニーを乗っ取るどころじゃない、もはや命自体を乗っ取っていると言ってもいいと思うわ⋯⋯。
問わず語りで言い終えると、蘊蓄を語りすぎた自分に照れたように少しにやけるキリエ。
ムータロは彼女の言わんとすることを察していた。
(つまり⋯こいつが言いたいのは、俺がこいつの香りを近距離で嗅ぐとあんな状態になっていたのは⋯⋯)
「ピンときてるって顔だね。そうよ、さっきキミが好きだって言ってくれた匂いは、私の”フェロモン”よ」
そう言うと、キリエはムータロに歩み寄り、彼をほぼ跨いで立ち止まり、後ろ手を組んで見下ろした。
圧に押されたムータロは、それまでの四つん這いから尻もちをついた座姿勢へと体勢を変え、ほぼ垂直の急角度上空に位置するキリエの顔を見上げる。
「さあてここで問題。いったいクイーンベスプは体のどこからフェロモンを出すでしょう?三十秒あげるから、当ててごらん❤︎」
いきなりのクイズ。
どこだろう。適当に答えてもいいが、それをキリエに悟られたらまずい。
ムータロは考える。
訊いてくるということは、これまでの会話や状況の中に既にヒントがあったはずだ。キリエはそういう話し方をする。
ムータロは答えを探す。だが、どうにも思考に集中できない。その理由は彼の視界に映るものにあった。ムータロの視線はあくまでキリエの顔に向いているのだが、この見上げる角度だとどうしても彼女のスカートの中も見えてしまうのだ。プリーツマイクロミニスカートの下、黒の下着とガーターストッキングに映えるキリエの白肌、下から見上げる絶対領域⋯⋯。
気にしないようにすればするほど気になってしまう。かと言って目をそらしたら、キリエに新たな”ムータロいじりネタ”を提供してしまうだろう。
刻々と秒が過ぎて行く。
だがある瞬間、ムータロは次のように思い至った。
(まてよ、ひょっとして今こうしてスカートの中が見えているという状況も、無意味なものではないとすれば⋯⋯)
そういうことか。灯台下暗し。ヒントは文字通りムータロの目の前にあったのだ。
だとすれば例の椅子の作りと用途にも合点がいく。
しかし、大きなヒントではあったが、決定的ではなかった。
スカートの中にはまだ、三つの正解候補があるからだ。お尻の箇所、小水の箇所、そして女性の、つまり生殖器官の箇所⋯⋯ん、生殖器官?
ムータロは先ほどのクイーンベスプの話を思い出す。
キリエは、クイーンベスプには生殖器官が無いと言っていたが、それは”初めから無い”のだろうか、それとも”無くなった”ということなのだろうか?後者の場合、”別の何かに変化”したということもあり得る。確か、多くの種類の蜂が持つ毒針は、産卵管が変化したものだったはずだ。そうか、つまり⋯⋯
ムータロは結論した。
今の状況とこれまでの会話において、最も必然性のある答えは、
「せ、せいひょくきかん⋯⋯?」
「ピンポーン! さすがムータロくん、賢い子」
キリエが嬉しそうに微笑んでパチパチ手を叩く。
「でね、これは不思議な偶然なんだけど⋯⋯」
そう言うとキリエは、左手の人差し指を股下のムータロの額に向けた。
催眠術の被験者めいてその人差し指を注視するムータロ。
人差し指が残像的滑らかさで動き、ムータロの視線をスカート内のある一点に導いた。
「ここを見ててね⋯⋯」
キリエが指したのは、黒い下着に包まれた柔らかな丘、漆黒のシルクロードの中心地点であった。
唾を飲み込んで注視するムータロ。
ほどなくそこに、桃色に輝く魔力粒子が発生しはじめる!
そしてそれはキリエのスカートの中に濃霧のように充満すると、やがて産まれて来た場所、すなわちキリエのクロッチの中心に渦を巻いて吸い込まれるように消え去った。
「ね?偶然にも、私のフェロモンもクイーンベスプと同じところで生成されるの⋯⋯」
頬を朱に染め、恥じらう乙女の顔で言う。
「私がつけてるこのプリーツマイクロスカートには、フェロモンをスカート内に閉じ込める結界魔術バリアーが込められているわ。だからさっき見せた時、フェロモンがスカート内にとどまっていたでしょう?」
スカートを指でつまんでひらひらさせながらキリエが言う。
そして続ける。
「そして⋯⋯この黒の下着にはね⋯フェロモンの強さを私の任意にコントロールするための増幅魔術アンプリチュードが込められているの。特注オーダーメイドの一品よ。今日はキミのために着けてあげてるんだからね⋯⋯❤︎」
そして、乙女はさらに説明を続ける。
私が自分のこの魔術に気づいたのはまだ少女だった頃。
最初はただ香りを発するだけのダメ魔術だと思っていたわ。
みんなにさりげなく嗅がせてみても、「なんか甘い香りがするなぁ」って感じだったから。
そんな感じでどうでもよくなって、それからしばらくは放っておいたの。
でも数年後のある時、地下室でピッグスの子で遊んでいた時に、ふとこの魔術のことを思い出して、試しにその子に嗅がせてみたわ。そしたらどうなったと思う?
その子は、それまですごく反抗的だったのに、香りを嗅いだ後はまるで魂が抜けたように従順になったわ。
性的欲情を促す効果もあった。フェロモンを嗅がせると、おちんちんをすごく大きくして、ちょっと体に触ってあげただけでも身をよじらせて悦んだ。
知能の低下も見られたわね。そこそこ賢い子だったのだけど、フェロモンを嗅がせるたびにどんどんおバカになっていった。
そんな感じでその子はフェロモン中毒になっていき、次第に、嗅がせてあげないと禁断症状を起こすようになった。
でね、そのまま嗅がせずに観察していたら、最後には痙攣して泡を吹いて射精して死んだわ。
私は気になってその子の脳を調べてみた。
すると、知能を司る部分が萎縮し、嗅覚を司る部分と性欲を司る部分が肥大化していることがわかった。
その後、何人かの別のピッグスの子で試してみても同じ結果だった。
私はこう結論した。
この魔術の真の効果、それは端的に言えば、”ピッグスの脳に作用して彼らを私の下僕にする”というもの。つまり⋯⋯
「くいーんべふぷと、おなじ⋯⋯」
説明されたフェロモンの効果の恐ろしさに冷や汗を流しながら、震える声で言葉を引き取ったムータロ。
キリエはムータロの理解力に満足し、優しく微笑む。
「ふふ、そういうこと。そうそう、言い忘れてたけど、今までキミが私と密着したとき嗅いでいた匂い、実はね、あれはフェロモンを微量配合しただけの市販の香水なの。だから少し精神状態がおかしくなる程度で済んでいたでしょう?」
(そ、そんな⋯⋯! 微量配合しただけであの効果なのか!)
驚愕するムータロ。
微量であれなのに、もしそれを直に嗅いだりしたら一体⋯⋯!
「だけど今日はね、キミをあの”授香椅子”に拘束して、私のスカートの中で、増幅魔術アンプリチュードで超高濃度にした生フェロモンをたっぷりと嗅がせてあげる。そう、何時間もかけて、たっぷりとね⋯⋯❤︎」
蕩けた瞳で見下ろしながら、淫虐の女神はそう宣告した。
Act.6 ムータロ・ザ・レジスタンス
「あっ、あっ、や、やべろぉっ!!!」
キリエに首根っこを掴んで持ち上げられたムータロが短い手足をばたつかせて叫んだ。
「ン、ずいぶん暴れるじゃない。四足歩行訓練の時はいい子だったのに」
それでもキリエは淡々と手際よくムータロを制し、”授香椅子”に拘束していく。
まず、体部分の拘束はこんな具合だ。
授香椅子の座部下方に、”カーブした脊椎とそれを囲む肋骨”のような捕獲装置がある。
その捕獲装置に、”頭を反り起こしたうつ伏せ”で寝かされるムータロ。
すると、捕獲装置はあたかも自らの意思を持っているかのように、食虫植物めいたその捕獲アームでムータロを抱きしめ拘束した。
その拘束は非常に固く、どんなにムータロが力んでも1マイクロメートルほども緩む気配すらない。
続いて頭部の拘束はこうだ。
キリエが座るであろう座部。その股間のあたりに丸いUの字型スペースがある。
Uの字の開いたほうはキリエの”脚側”で、閉じた方は”股間側”の作りだ。
その股間側に顔を向けて頭をはめ込まれると、Uの字の開いたところが拘束帯で閉じられ、Oの字型となった。
この拘束も非常にタイトで、緩む気配はない。
「んあああ!!!! やべろぉぉぉぉぉっっっっっ!!!!!」
叫ぶムータロ!
彼がここまで抵抗するのには理由があった。
管理局に捕らえられてからこれまで、四肢切断、全抜歯、そして四足歩行訓練という苛烈な刑を受けてきたムータロ。
だが、それでもなお心は折れきっておらず、処刑官キリエに一矢報いることを諦めていなかったのだ。
今日の四足歩行訓練の刑を特に抵抗せずに受けたのも、あくまで反撃のチャンスはまだ先だと思ったからだった。
しかし、今ここでフェロモンで洗脳されてしまったら、そもそも反撃の意思自体が消えてしまう!
したがって、この刑だけは決して受けてはならないのだ。
(何か、何かないのか? この状況を打開する方法は!)
ムータロは必死に思考を巡らすが、打開の妙手は一向に浮かばない。
そうしている間に、準備完了したキリエがムータロを跨いで立った。
「く、お⋯⋯おれはおまえには負けない⋯⋯!」
キリエを上目遣いで見上げて精一杯強がるムータロ。
「あらら⋯⋯。”おまえ”だなんて。お行儀の悪いこと。ま、いいわ。すぐに私のフェロモンでいい子にしてあげるから」
ムータロのささやかな意地を、キリエはどうでも良さげに鼻で笑う。そして、
「じゃあ、座るね⋯⋯❤︎」
そう言ってキリエはムータロの額を指で優しくひと撫した。
そして右手でムータロの頭を抑えつけると、ゆっくりと座部に向かって腰を下ろし始めた!
ムータロに上空から迫る、黒い下着に包まれた股間!
それは徐々にアップになっていき、やがて、
ズシッ⋯⋯ギュゥゥッ⋯⋯!
ムータロの顔面にキリエの股間がソフトランディング!
のしかかる体重!
「ンムグゥーーーーッッ!!!」
想像以上の重さに顔面を圧迫されムータロは苦悶!
(お、この子の顔の形、股間にいい感じにフィットするなー⋯⋯❤︎)
そんなことを思いながら、キリエは自分の尻やムータロの頭の位置、授香椅子の拘束の強さなどを微調整し、ムータロの顔面を自分の股間に限界まで念入りに埋めこんだ。
さらに内腿の絶対領域で彼の側頭部をホールドし、最後にふわりとスカートを直してムータロの頭にかぶせた。
授香体勢の完成である。
授香フェロモン。
これまで、幾人ものピッグスの勇者たちを完全破壊してきた、キリエの固有魔術にして処刑術奥義のひとつだ。
まさにそれを今、ムータロは受刑せんとしている。
顔面を包む柔らかなクロッチ。
鼻面を埋め込まされた股間の中心。
視界を封じるスカート。
側頭部をむっちりとホールドする内腿。
授香椅子の捕獲装置のタイトな締め付け。
すでに、いつフェロモンが発生し始めてもおかしくない状態だ。
このフェロモンを吸わされた者がどうなるのかは、先ほど聞いた通りだ。
そんな危機的状況が、直感を研ぎ澄ませたのかもしれない。
ムータロは、あることに思い至っていた。
それは、この恐るべき魔術の性質についてだ。
自分がキリエと密着して精神幼児化現象を起こしていた時の状況。
そして先ほどのクイーンベスプのフェロモンの話。
振り返って考えてみればどちらも、”匂いを嗅ぐ”ということがキーポイントだった。
つまり、鼻呼吸はまずいのではないか。
逆に言うと、口呼吸して匂いを嗅がないようにしておけば、フェロモンの効果を回避できるのではないか?
「さてと、始めよっか❤︎」
刑の始まりを告げるキリエの楽しそうな声。
ムータロはいよいよ覚悟を決めた。
先ほどの推論。確信はないが、試してみる価値はある。
いや、試してみる価値しかない。
スカート内に桃色の魔力粒子が発生し、徐々に色が濃くなっていく。
ムータロは呼吸を止めていたが、やがて意を決して口呼吸を開始した。
「すぅーーーーーっっ、はぁーーーーーーっっ、すぅーーーーーーーっっ、はぁーーーーーーっっ⋯⋯」
数呼吸後。
呼吸しながらムータロは自分の精神状態を観察する。特に異常は感じない。
やはり思った通りだ。口呼吸で匂いを嗅がないようにすれば、この魔術を回避できるのだ!
(よし、このまま何とか⋯⋯魔力も無尽蔵ではないはずだ⋯耐え抜いてみせる⋯⋯そう、レジスタンスの誇りにかけて!)
† † †
授香開始から三分。
スカート内のムータロは、頑なに鼻呼吸をしようとしない。
(ふーん、ちょっと賢いじゃん)
キリエは少し感心した。
フェロモンは鼻から”匂いを嗅がせる”ことで効果を発揮する。ただ吸わせるだけではダメなのだ。
ムータロには説明していなかったはずだから、今までの会話や状況の中から推測したのだろう。
「ムータロくん、お鼻で呼吸しなさい」
キリエは試しに命令してみるが、
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯!」
ムータロは無言で拒否!
キリエは”やれやれ”という顔でため息をつく。
時々こういう意志の強い頑固者スタボーンがいる。
だがそこはもちろん、天才的センスを持った処刑官である。いくらでも屈服させる術は心得ている。
キリエは、授香椅子の左の肘掛けに付属したツールボックスを開ける。
開くとそこには、酒精を染み込ませた消毒用の使い捨て綿布と、長さ15センチほどの無数の針!
まず消毒綿を手に取ると、長い腕を伸ばしてムータロの尻を丁寧に拭きはじめた。
「ングゥッ!? ンッ、ングゥ!?」
スカート内で視界を封じられているムータロは、尻に冷たい感触を感じるも、何をされているのか把握できず不安の呻きを漏らす。
キリエは、そんなムータロの心理状態を、股間に感じる息遣いやわずかな顔の動きによって読み取っていた。
(ふふ、息が荒いよ⋯⋯。怖いんだね⋯⋯❤︎)
キリエはムータロの尻を丁寧に拭き取り終えると、続いて今度は右手でムータロの後頭部をホールドし、顔面をより一層強く股間に埋め込んだ。
これは、こうすることで、”何かをされることを受刑者に予期させる”テクニックである!
「ングッ? ムグゥッ!?」
キリエの思惑通り、ムータロは”何かをされる”恐怖に呻きを漏らす!
そして、顔を動かして何とか少しでも彼女の股間から逃れようとする!
(あんっ、もう、くすぐったいんだから⋯⋯❤︎)
股間で感じるムータロの健気な頑張りに、キリエは頬を上気!
キリエは左手に針を取る。
そして、ムータロの尻の先ほど消毒した箇所に向けてしなやかな腕を伸ばしていく!
「さ、ちくっとするよー⋯⋯⋯⋯❤︎」
⋯⋯プスリ!
ムータロの尻に針が突き刺さった!
「ンムゥゥゥゥゥーーーーッッッッッ!」
ムータロはくぐもった悲鳴!それでも鼻呼吸は我慢!
するとキリエは!
「ほらぁ、ちゃんとお鼻で吸えない子には⋯⋯」
長い指で針の頭をつまみ、
「くりくりくり〜❤︎」針をくりくり!
「ンムゥーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!」ムータロ悶絶!
そして、くりくりの痛みから逃れるため、思わず一瞬だけ鼻呼吸!
「ンスゥーーーーッ!」
すると、スカート内高濃縮フェロモンが、ムータロの鼻腔を経由して脳髄に炸裂!
「オムゥーーーーッッッッ!!!!!! オッ、オオッ!!! あっhgぺうじゃhsdpfふsygqlshjg!!!!」
ムータロは快感と苦悶のあまり聞き取り不能な絶叫!
(だ、だめだっ⋯⋯やっ、やはり⋯⋯!)
やはり鼻でこのフェロモンを吸うと脳がやられてしまう!
そうなってしまってはキリエに一矢報いることなど不可能だ。
ムータロは気力を振り絞り、鼻呼吸を我慢する!
「くりくりくり〜❤︎」キリエは再び針をくりくり!
「ンムゥーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!」ムータロ悶絶!
しかし鼻呼吸は我慢!
「うんうん、強い子。針はまだまだたくさんあるから、頑張ってみなさい❤︎」
キリエは再び消毒綿でムータロの尻を拭く!
そして右手でムータロの後頭部をホールドし、彼の顔面をクロッチに埋め込む!
「ンムグゥーーーッッ!」
これから”痛いことが起きる”ことを予期したムータロは悲痛な絶叫!
「さ、二本目いくよー⋯⋯⋯❤︎」
プスリ!ムータロの尻に二本目の針が突き刺さる!
「ムギィィィィーーーーッッッッッ!」
ムータロは動物めいた悲鳴!それでも鼻呼吸は我慢!
するとキリエは!
「くりくりくり〜❤︎」
またしても針をくりくり!
先ほどより力を込め、ムータロの尻筋肉の奥にまで針をねじり込んでいく!
「オァァァァァァァァァんっっっ!!! オァァァァァァァっっっっ⋯⋯!」
ムータロはキリエのクロッチに顔を埋めて泣きながら耐える!
† † †
挿絵(By みてみん)
十五分後。
ムータロの尻はもはや、魔獣ヤマアラシのごとく無残に針まみれである。
「さ、次の針いくよー❤︎」
キリエの無情な声!
(ああっ! まだ針があるのかっ! まだフェロモンは尽きないのかっ⋯⋯!)
泣きながらも懸命に耐え続けてきたムータロだったが、次第にその胸に誘惑の声が響き始める。
もうこれ以上痛いのは嫌だ⋯⋯!
一矢報いたところで、いったい何になる⋯⋯?
レジスタンスの誇りなどという形のないもののために⋯⋯?
もう諦めて、鼻呼吸してしまえばいい⋯⋯!
そうすればこの針地獄から解放される⋯⋯!
フェロモン漬けになって精神崩壊してしまえば、きっと恐怖も苦痛もない⋯⋯!
終わりなのか?
レジスタンスの誇りはもはやこれまでなのか?
このまま自分は、キリエのスカートの中でクロッチに顔を埋め込まれながらフェロモンで脳を犯され、四足歩行の淫獣とされてしまう定めなのか?
ムータロの脳裏に、レジスタンスとしての戦いの日々が走馬灯のように浮かんだ。
八歳の頃、ピッグス収容施設ファームを脱走し、荒野で行き倒れになっていた自分を救ってくれた組織レジスタンス⋯⋯。
厳しい鍛錬の日々。緊張の初任務。完遂後のささやかな祝宴⋯⋯。
夜を徹して皆で語り合った理想⋯⋯。
しかし厳しい現実の前に、一人また一人と散っていった仲間たち⋯⋯。
そしていつのまにか古参兵と呼ばれるようになっていた自分⋯⋯。
それらのイメージは、切れかけたムータロの気力を今一度復活せしめた。
(そうだ、俺はレジスタンス⋯⋯ムータロ! 諦めて⋯⋯たまるものか!)
とはいえ、この状況でどう反撃する?
手脚は切断され、歯は全て抜かれている。
その上で授香椅子の捕獲装置にギチギチに拘束されているのだ。
文字通り手も足も出ず、噛みつくこともできない。
そして頭も授香椅子の座部にきっちりはめ込まれて拘束されており、さらに側頭部をキリエの股間と内腿の絶対領域でむっちりとホールドされている!
その上で顔面を彼女の股間に念入りに埋め込まれ、そこでの呼吸を強いられているのだ!
気力は復活したが、このままではジリ貧だ。
それに、仮にこの針地獄に耐え抜いたとしても、キリエが何か別の、ムータロが強制的に鼻呼吸せざるをえない手段──何らかの方法で口を塞ぐなど──を取ってきたら終わりだ。
何か、何かないのか?そうなる前にこの処刑官にわずか一矢でも報いる反撃の手立ては!
(くそっ、せめて歯が一本でも残っていれば⋯⋯!)
心の中で毒づき、全抜歯されている口内を、改めて舌で確かめるムータロ。
やはり歯茎には何もない。だが、その口内の感触は別の閃きをトリガーした。
(そ、そうだ⋯⋯あった⋯あったぞ! 一つだけ、反撃の手段が!)
客観的に見れば、その攻撃手段はあまりにも無様で滑稽かもしれない。
だが今、この生と死の舞台において、それがいったいどうしたというのだ?
これが最後の攻撃チャンスかもしれないのだ。選択肢などない。
(やるぞ⋯⋯! やってやるぞ!俺の生き様、レジスタンス魂、見せてやる!)
意を決したムータロ!
瞑目して全神経をそれに集中!
そして決断的に最初の一撃を、放った!
レロッ!
「ひゃうっ!?」
股間の中心に発生した予期せぬ打撃感!
思わず悲鳴をあげてしまったキリエ。
(えっ? な、なに今の?)
錯覚か? いや、違う。確かに今、クロッチの中心に打撃を受けた。
このスカートの中で、自分が予期せぬ何かが起こったのだ。
そして、この状況で、その何かを引き起こせるとしたら、それは一人しかいない。
さらに、
レロレロッ!
「ひぁっ!?」再び同じ打撃感!
間違いない。クロッチの中心、フェロモン生成器官に、ムータロによって何らかの攻撃が加えられている!
でもどうやって?
手足は切断済み、その上で授香椅子にギチギチに拘束。
歯だって全て抜いてあり、攻撃手段なんてないはず⋯⋯
(あっ! ま、まさかこの子⋯⋯!)
キリエは攻撃手段の正体に思い当たって戦慄した。
(うそでしょ、やだ、ちょ、信じらんない!)
そう、今現在ムータロに許された唯一の反撃手段、それは、
「舌」
である!
そして先ほどの打撃感の正体は、ムータロの裂帛の気合いを込めた高速舐め突きによる、キリエのフェロモン生成器官へのアタックである!
キリエの動揺の気配を察したムータロは畳み掛ける!
(よし、追撃だ! くらえっ! うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっ!)
レロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロォッッッッッッッ!!!!
レジスタンスの闘士ムータロ、死力を尽くした全身全霊のマシンガンレロレロ!
「あっ、あああっっ!!! やっ、やだっ、ちょっと待っ⋯!!!」
キリエはムータロの頭を股間から引き離そうとした。
しかし授香椅子の拘束のタイトさが仇となり、ムータロの頭を引き離せない!
引き離せないなら自分が椅子から立ち上がるしかない!
しかし立ち上がりかけた瞬間、
(逃さん!)
チュゥゥゥゥッッッッッ!!!
海魔クラーケンの吸盤もかくやという吸引力が、キリエのクロッチを吸って離さない!
「ひゃっ、ひゃぅぅぅぅぅっっっっ!!!」
あまりにおぞましいその感触にキリエはガチの悲鳴!
その悲鳴を聞いたムータロ。ここが勝負と見て、一気呵成に仕掛ける!
(うぉぉぉぉぉぉっっっ、ゆくぞ!)
レロォッ!レロレロッ!レロッ、レロッ!レロレロレロレロレロレロレロレロォッッッッッッッ!!!!ロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロ!!!チュゥゥゥゥゥゥッッ!!レロレロレロレロレロッ、レロッ!チュパム!チュパム!レロレロレロレロレロレロッ、レ〜ロ〜ッッ!レロレロッ、レロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロレロォッッッッッッッ!!!!
回転数が増し、リズムに緩急のついたマシンガンレロレロ!
「あっ、あっ、あああっっ、いっ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっっっ」
ムータロの頭を引き離すことも、立ち上がって逃れることもできず、キリエは背中を弓なりに反らせてビクッビクッと悶絶!
「あ・あ・あ・あ!!!!」
その調子で攻めたてること実に五分!
ついに!
ジョワーーーッッッ!!!!!!!
激流のごとくキリエ失禁!
「うぼぉぉっっ!!! おぼぼぼぼっ!!!!」
下着を貫通した小水を顔面に浴びてムータロは呼吸困難!
その一瞬の隙に、キリエは授香椅子からなんとか立ち上がり、怒涛の攻撃から逃れることに成功した。
キリエはふらふらと少し歩いた後、力が抜けたように床にぺたんとへたりこんだ。
そして手をついて肩を震わせ始めた。
ひぐっ、ひぐっ、ぐすっ、ぐすん⋯⋯⋯⋯
「うえっ、うえっ、うえええええーーーーーん!!! ああああああーーーーん!!! うあぁぁぁぁぁーーーん!!!」
慟哭!女の子座りで少女のように泣き出すキリエ!
キリエの意外なほどに幼い泣きっぷり。
その声を聞きながら、ムータロは疲労困憊ながらも勝利感に酔っていた。
(やった⋯⋯やってやったぜ⋯⋯ざまーみろ⋯⋯!)
同時に、自分でもそう感じるのが不思議であったが、心の何処かに、”女の子を泣かせてしまった”的な一抹の罪悪感もあった。
ああーーん、ひぐっ、ひぐっ、うあーーん、ああああーーーっ⋯⋯⋯⋯!
数分経ったが、キリエはまだ泣き続けている。
時間が経ったことでムータロは少し頭が冷えてきていた。
勝利感への酔いが冷めてくると、今度は今更ながら迷いが生まれてきた。
キリエに一矢報いることはできた。
身体的ダメージは皆無だろうが、少なくとも精神的には強いショックを与えたはず。トラウマを刻むことさえできたかもしれない。
しかし、しかしだ。
それにいったい何の意味がある?
仮にキリエがこれで精神的ショックを受けたからといって、それが何だというのだ?
処刑官に個人的に一矢報いたところで、この社会の何が変わるというのだ?
これでピッグスは解放されるか?
いや、残念ながらそんなわけはない。
そしてもう一つ。
この後の自分はどうなる?
処刑なのだから最終的には殺される。それはわかっている。
だがそれに至るまでのプロセスがどうなるかだ。
このようなことをしてしまった以上、報復は避けられないだろう。それは生半可なものではないはずだ。
こんなことをしてしまって本当に良かったのか?
自分が受ける苦痛をいたずらに大きくしてしまっただけなのではないだろうか⋯⋯?
思考に没頭していたが、ふと気づくと、キリエの泣き声がやんでいた。
ハッとするムータロ。
背中に気配を感じる。
背後を確認したいが、首を回すことができない。
静かだ。沈黙が怖い。
額に脂汗が浮かぶ。
唾を飲み込むと、乾ききった喉に痛い。
「わたしね⋯⋯」
キリエの静かな声が、静寂を破った。
「嬉しかったんだよ⋯⋯? キミは事前処置を頑張ったし、私の料理を美味しいって言ってくれた。だからそのご褒美にフェロモンをあげようと思った。今日の四足歩行訓練だって、いい子だったもんね⋯⋯⋯⋯。だけど⋯⋯だけど本当は、キミはそうやっていい子のふりをして、チャンスをうかがってただけだったんだね。私が隙を見せたらいつでも牙を剝くつもりだったんだね⋯⋯」
ムータロは何も言葉が出ない。
キリエは続ける。
「ねえ、ムータロくん。私いま、すごく驚いてるんだ⋯⋯自分がこんなに怒れるんだってこと」
穏やかな声音。それがかえって彼女の怒りのほどを感じさせる。
「ねえ、私、決めたよ。これからキミをどうするか」
声とともに、背後からキリエの気配が近づいた。
ムータロは緊張に身を固くする。
授香椅子の捕獲装置の拘束が解かれた。
体が自由になったムータロだが、抵抗する暇もなくすぐに首根っこを掴まれて制される。
キリエはムータロを胸の高さまで軽々と持ち上げた。
そして泣き腫らして充血した目でムータロを覗き込むと、先ほどの言葉の続きを言った。
「ムータロくん、キミの体を、人体の極限まで”処置”してあげる」
そう言うと、ムータロの体をさらに高く、頭上に持ち上げる!
二メートル以上の高さ!
ムータロは思わず恐怖に叫ぶ!
「あああああーーーおっ、降ろし」
ドゴォ!
キリエは問答無用でムータロを床に叩きつけた!
「グボォォッ!!! ゲッ、ゲホォッッッ!!!!!」ムータロは悶絶!
さらにそこに追い討ちで、長い脚による遠心力の効いたサッカーボールキック!
ドグォッッッ!
ムータロは宙を舞って壁に激突!
そこで数瞬停止した後、どたっと床に落ちる!
「カハッ、カハッ、カヒュッ⋯⋯! コッ、コヒュッ⋯⋯!!!」
白目を剥いてピクピク痙攣するムータロ!
そこにキリエはツカツカと歩み寄ると、ムータロの耳をつまんで引きずりあげる!
「アッ、イィィーーーーッッッ!!!」激痛でムータロ覚醒!
「気絶しなさいなんて言ってないよね⋯⋯」
行動とは裏腹な穏やかな口調でキリエが言う。
苦悶の中でムータロは思う。
キリエは『人体の極限まで”処置”する』と言った。
そう、”処置”と言ったのだ。
つまりこの後の展開は、あ、ああ!ま、まさか⋯⋯!
「じゃ、”処置室”に行こっか」
「あっ、あっ、あああああああああ!! いやらっ、おれがわるかっはれふぅぅぅぅぅぅ!!!! らふけれくらはい! いやぁぁぁぁぁっっっっ!!!! うぉあああああああ!!! んごぉ、んむぅ! おおおおおおあおpしdgぷfyんゔぉやvるvはfpんvぱづfhあっ!!!!!」
トラウマワードを聞いたムータロは半発狂し、聞き取り不可能な絶叫!
女神は、そんな彼の絶叫など全く聞こえていないかのような涼しい顔をしている。
そして、泣きわめく彼の耳をつまんで持ち上げたまま、処置室へ向かうべく、淡々と歩き出したのであった。
Interlude ある老人の懺悔
明るく優しい娘じゃったと思う。
わしが聖典を読んで聞かせると、”フローレンスに、私はなる!”と目を輝かせていつも言っておった。
そして事実、あの娘には治癒魔術の才能があった。
人に対してはもちろん、動物や虫に対しても分け隔てなく治癒魔術を使った。
そうやって苦しんでいるものを助けることに、幼心に母性的な悦びを感じておったように見えた。
だが、人は長ずるにつれ、誰しも現実を知っていく。それはエリニュスであるあの娘とて例外ではない。
自分の治癒魔術の限界を悟ったんじゃろう。自分の魔術は、フローレンスのそれには届かない、とな。
その頃からじゃった、あの娘が物理的医療技術の研究をし始めたのは。
魔術では届かなくとも、物理的医療技術の研究であれば、フローレンスのようになれると思ったのかもしれん。
身内のわしが言うのもなんだが、賢い娘じゃからな。市販の本から専門書まで、あっという間に片っ端から読破してしまった。
そうなればあとは実技じゃ。人の体の仕組み、各器官の役割、どこをどうすればどうなるのか⋯⋯。
ある日のことじゃ。あの娘はわしに言いにくそうにこう頼んだ。
「おじいちゃん、実はね⋯⋯研究で生きた人間を使いたいの。お願い、どうしても必要なの」
さすがにこれはまずいと思ったよ。そりゃ、普通そう思うわな。当然わしは反対し強く諭したが、最終的には承諾してしまった。あの娘はエリニュスだし、わしのような凡人の物差しで測るべきではない。多少手を汚すことになっても、長い目で見て社会に役立つならば⋯⋯などと思ってしまったんじゃ。
思えば、あの時が分岐点だったのかもしれん。あの時わしが突っぱねていれば⋯⋯と今でも思うよ。
さて、それでどうしたと思う?
とっとと白状しよう。わしはコネを利用して、生きた人間を手にいれた。
どうやって?刑務課から死刑囚を横流ししてもらうとか?いやいや無理じゃろ。ここは法治国家じゃぞ。
死刑囚とはいえ人間で、彼らには、然るべき刑を受け速やかな死を得る義務がある。
だから、普通の人間は無理じゃ。それでわしは”ピッグス管理局”に目をつけた。
細かいところは端折って、端的に言おう。
評価は別だが事実として、ピッグスが一人や二人どうなろうと、誰も気には留めん。他ならぬピッグス管理局でさえもな。
そうして、わしの家の地下のあの娘の研究室には、時折大きな荷物が運び込まれるようになった。
わしは次第に家を空けることが多くなった。
職場の近くに別に部屋を借り、家にはあまり帰らなくなった。
法務局長に就任して忙しくなったから、とあの娘には言ったが、本当の理由は違う。
見たくなかったんじゃよ。あの娘が地下室でピッグス達に何をしているのかを。
現実から目を背けたんじゃ。自分の中ではいつまでも、明るく優しく可愛い孫であって欲しかった。
それでも時々家に帰ると、あの娘はわしの帰宅を大いに喜んでくれ、一人暮らしするうちに覚えた料理を振舞ってくれた。お世辞ではなく、そこいらの高級レストランがかすむ程美味かったぞ。凝り性じゃから、研究したんじゃろな。それだけでなく、腰が痛いといえば腰を、目が霞むといえば目を診てくれた。そして、「おじいちゃん、私が処置してあげる」と言って、いろいろ治療してくれたりもしたもんじゃ⋯⋯。
そんな感じでのう、わしに相対している時のあの娘は、相変わらず明るく優しく可愛い孫じゃった。
いつの間にかたいそう背は伸び(エリニュスなので当然じゃが)、ずいぶん見上げねばならなくなっていたがの。
で、するとな、わしはこう思ってしまうんじゃよ。いや、そう思いたかっただけかもしれんが。
ーーー地下室で何をしているか知らんが、こんな良い娘が、そうそう残酷なことはするまい⋯⋯ーーー
結局わしが、地下室で何が行われているかを確認することはついぞ無かった。
さて、あの娘のことを語るには、彼女に備わったもう一つの魔術について話さねばなるまい。
生き物の話から入るとしよう。
社会性生物の中には、一人の女王をコアとしてコロニーを形成する種がある。身近なところでは、蜂や蟻、ある種の鼠などじゃろう。では、彼らは一体どのようにコロニー内での意思疎通や命令の伝達をしとるんじゃ?例えば人間ならば、言葉でのやりとりが可能じゃが、蜂や蟻どもは?飛び方や仕草でか?それもあるらしい。だがそれでは、「巣から遠く離れて行動する一匹の蜂が外敵に出会った時、すぐさま仲間が駆けつける」などということを説明できん。ではどうやって?わしは生物学には疎いからよく知らんが、どうも彼らは、何らかの匂いのようなものによって意思疎通や命令伝達を図っている、ということを示唆する研究結果があるらしい。
その”匂いのようなもの”の効果は非常に強力でな、先ほど言ったような仲間を集合させるといったことのみならず、女王以外の雌の生殖機能を失わせるもの、女王が雄を下僕化するもの、さらには、ある個体がコロニーの中でどんな階級に属するかを決定し、それに合わせて様々な肉体的変容を促すものなどもあるようじゃ。
あの娘に話に戻そう。
だいたいピンときとるだろうが、あの娘に備わったもう一つの魔術の才能、それは、この「匂いのようなものを生成する」というものじゃ。ある時わしはそれを偶然知ることになった。
ある日、こんなことがあった。
わしとあの娘が所用で街を歩いておった時のことじゃ。
とある建設現場の近くを通りかかった時、巨大な石材が崩れ、肉体労働に従事していた一人のピッグスの腕がそれに潰された。腕のちぎれたピッグスは大量出血して倒れこみ、そのままでは命はあるまいと思われた。だが、ピッグスである彼に応急処置を施したり、医療所に運ぼうとする者は誰もいなかった。あの娘以外は。
あの娘はそのピッグスに歩み寄り、治癒魔術を施した。
ちぎれた腕はつながらなかったが、出血は止まり一命は取り留めそうだった。
観衆は、エリニュスの魔術に対し口々に感嘆を漏らしていたが、そこにこんなノイズが混じった。
「助ける必要あったのか?ピッグスなんかどうせ使い捨てだろ?その辺に捨てて鼠の餌にでもしちまえば⋯⋯」
その場には他に七〜八人ほどのピッグス労働者がいた。言葉を聞いた彼らの一人が激昂した。
「おい、誰だよ⋯⋯!いま口からクソを吐いたクソ野郎は!?」
そのピッグスの激昂に、今度は観衆が色めき立った。
「おいおい、豚が喋っちまったぜ(笑)」
「ピッグスがいっちょまえに人間の言葉を喋ってんじゃねーぞコラ!」
売り言葉に買い言葉。
言葉の応酬は長く続かなかった。
口火を切ったピッグスが殴りかかった。他のピッグス達も連鎖的に殴りかかった。
「んだってめーっ!」
「死ねっこらー!」
「きゃああっ!」
「だ、誰か!」
「管理局を呼べ!」
取っ組み合うピッグスと観衆、叫ぶ者、逃げ惑う者。
放射状にカオスが加速してゆかんとするその中心点にあって、あの娘は冷静にこう言った。
「おじいちゃん、少しだけ離れて。体から強い香りを放つから」
あの娘が詠唱を終えると、辺りを強い甘い香りが包んだ。
数秒後にはもう、ピッグス達は皆膝を着き、一人また一人とその場に倒れこんだ。
やがて駆けつけた管理局の鎮圧部隊が見たのは、だらしなく涎を垂らし、恍惚の表情であの娘の足元にすがるピッグス達の姿だった。
そしてあの娘は、驚愕の表情を浮かべる鎮圧部隊に向かってただ一言。
「この子達はもう無害です」
⋯⋯とまあ、こんなことがあって、わしは図らずもあの娘のもう一つの魔術を知ることになったんじゃ。
ん?なぜあの娘はわしにもその魔術の存在を秘密にしていたかじゃと?
そりゃあ、エリニュスとはいえ年頃の娘じゃ。
自分の体から放散する匂いでピッグスを性的に魅了して下僕化する魔術ですなどと、祖父には言いづらかったんではなかろうかのう。
いやいや、わしからも聞いとらんよ。
祖父とはいえ男が、乙女に秘密を聞くのは憚られるじゃろ。
だから、わしがその「匂いの魔術」について知っていることは多くはないよ。
まあ、そんなこんなでな。
で、時が過ぎるのは早い。
あの娘が社会に出る時がやってきた。
わしはてっきり、あの娘は医療技術の研究者になるもんだと思いこんどったよ。
それがまさかピッグス管理局に就職するとはな。しかも後から知ったが、処刑官として。
理由については聞いてもはぐらかされるよ。
だからこれはわしの推測で、同時に限りなく真実だが、こういうことじゃと思う。
個人差はあるが、エリニュスが加虐的な傾向を持つことは周知の事実じゃな。
あの娘の場合には、こんなことがあった。
ずっと幼い頃の話じゃ。
庭で、傷ついた羽虫を治癒術で癒しておった。
わしは嬉しかったよ。子供にとって、ましてやエリニュスの加虐的性質からすれば、羽虫など絶好の殺戮ターゲットじゃろうに。なのにこの娘は殺すどころか癒しておる。
だが、どうも様子がおかしい。次の日も、その次の日も、その次の日も同じように傷ついた羽虫を癒しているんじゃ。
わしは訝しんだ。そしてついにある日、それを見つけた時はショックを受けたよ。
あの娘のベッド下でわしが見つけたのは、羽をむしられ、脚をもがれ、触覚を抜かれ、腹を切り開かれ、全身を針で固定され、か細い鳴き声をあげながら、治癒術を込めた籠の中で生かされ続けているかつて羽虫だったものたちの姿じゃった。
わしはあの娘を叱った。
そしてそれ以来、そういうことは無かった。
じゃがな、三つ子の魂百までともいう。
だから、ああ⋯⋯そうじゃな⋯⋯。いま思えばやはり、あの娘の地下室で行われていたのは⋯⋯。
ただな、孫びいきと思われるかもしれんが、あの娘の優しさ、母性も決して偽物ではないとわしは思うんじゃ。フローレンスに憧れる治癒術使いの優しい少女であったことも、確かなんじゃ⋯⋯。
⋯⋯と、これがわしが思う、あの娘が医療技術の研究者ではなく管理局の処刑官になった理由じゃよ。
身も蓋もなくひとことで言ってしまえば、加虐的欲望じゃ。
管理局では、ピッグスの処刑方法は処刑官に任されているそうじゃ。
そういえば、あの娘は処刑のことを「処置」と呼んだりもしているそうじゃな⋯⋯。
そこまで話して、老人は沈黙した。
パチッ⋯⋯パチッ⋯⋯
暖炉の薪の爆ぜる音。炎が、老人の落ち窪んだ黒目がちな目に映り込む。
外は初冬。雨が、雪に変わっていた。
【番外編】とあるハードデイ。そしてその夜。Part1/2
管理局地下七階。
処刑官キリエ専用フロア。
多くの鉄扉が並ぶ、石造りのT字型廊下。
その中のとある一室、”授香室フェロモン・ルーム”。
さほど大きな部屋ではない。広さは5メートル四方ほど。こじんまりとしている。
床は暗い赤の長毛絨毯。同じく暗い赤地の壁には、古代文字によると思しき呪術的文様。天井のシャンデリアと壁掛けの燭台が、暗く室内を照らしている。
静謐さと不気味さ。ゴシック的アトモスフィア。
そして部屋の中央には、椅子的形状の物体が床から生えていた。
そう、「生えていた」と形容したくなるような、奇妙な曲線的デザインと有機的質感。
座部の高さからするとエリニュス専用に設計されたものだろう。
奇妙なのは、座部が「円弧の下4分の1状」の形をしており、そのまま座っては尻がずり落ちそうに見える。
さらに、座部前方から中央にかけた股間のあたりに丸くスペースが空いており、球体状の何かをそこに嵌め込んで締め付けるような作りになっている。そして座部下方は、「カーブした脊椎とそれを囲む肋骨」もしくはある種の食虫植物──獲物が止まると葉が閉じられるタイプの──を連想させる捕獲拘束装置のような作りになっていた。
今、この部屋には対照的な二人の人物がいる。
「んすぅーーーーっ、んっ、んっ、んぉォォォォ……!」
苦しげな呻き声の主はピッグス。
レジスタンスのベテラン闘士であった男だ。歳の頃は四十代半ば。
先日、ピッグス管理局によるレジスタンス拠点強襲で捕らえられ、キリエに処刑を担当されることとなった。
彼は今、前述の椅子──授香椅子フェロモンニング・チェアー──の座部下方の捕獲機構に拘束されている。
その体は無残な状態だ。根本から切断された四肢、脂肪で膨れ上がった体、頭蓋穿孔トレパネーションを施された頭部、さらに、頭以外の全身を覆うおびただしい止血済み切開口からは、ピンク色のフレッシュなお肉が覗いている。
「ンッ、もう…… ダメでしょ、そんなに顔動かしちゃ…… ほら、いい子にして……ね?」
母性的な声音でピッグスを叱ったのはもちろん、このフロアの主、美しきエリニュス、処刑官キリエである。
座っている姿からでも、その細身の長身は印象的だ。2メートルは超えているだろう。
そしてその3分の2を占めるに迫る長く形の良い美脚。
くびれた腰つき。キュッとしたお尻。
骨格自体が細いため痩せているように見える胴体。控えめな胸。
しなやかで柔らかそうな腕。長い指。
小ぶりな頭部。12頭身ほどあるだろうか。
白皙の小顔。涼やかな目元、グレーの瞳。細く筋の通った鼻。尖った耳。小さく整った赤い唇、艶黒子。
ポニーテールにまとめられた、美しい黒髪。
そしてその身に纏う異装。
フロント編み上げタイプの、黒いタイトフィットの魔獣革製サイハイブーツ。踵はシルバーのピンヒール。
黒のガーターストッキング。太もも部分に赤い十字があしらわれている。
黒いタイトフィットの魔獣革製コルセットと、それに付属した黒のプリーツマイクロミニスカート。
白い上品なブラウス。その両肩に赤い十字の刺繍。
首元を飾る、細身のフェミニンな赤いボウタイ。
黒いタイトフィットの魔獣革製ロンググローブ。
ナースキャップのようなデザインの小さめの魔獣革製帽子。前面には赤い十字マーク。
彼女は今、自身の股間でもがくピッグスの頭を、ロンググローブに包まれた手で優しくホールドし、彼の顔面を自身のクロッチの中心にキープしている。
受刑者に、”授香フェロモン”を施しているのだ。
挿絵(By みてみん)
彼女の処刑術は、管理局所属の全処刑官の中でも、ぶっちぎりで苛烈である。
まず初日に四肢切断と全抜歯を行う。これは彼女が”事前処置”と呼んでいるもので、抵抗と自殺を封じ、受刑者に絶望を与えるための処置だ。彼女は自身が担当する受刑者には例外なくこれを施す。そしてその後、残り六日間に渡って思いつく限りあらゆる人体改造処置を施す、という恐るべき処刑スタイルである。
また、彼女は治癒魔術も得意ともしているため、受刑者はどんなに苛烈な人体改造を施されても、処刑最終日に殺されるまでは決して彼女の”処置”から逃れることはできないのだ。
今回のこの受刑者は処刑開始から四日目にあたっていた。
初日はむろん事前処置。二日目と三日目に、無毛化、超肥満化、トレパネーション、顔面整形。そして今日は体を数十か所ほど切開し、そこの皮をプリッと剥き、肉を露出した状態にして縫い留めていく、という処置を行った。言うまでもなく全て”痛覚鋭敏剤”を使用している。
この受刑者はなかなかの頑張り屋で、三日目の処置まではほぼ泣かずに耐え抜いていた。だが今日の処置では半発狂して大泣きであったところを見ると、どうやら切開系と皮剥系の処置には弱いようだ。
今日のようにたくさん泣かせた後はケアが重要だ。七日間の処刑期間中、受刑者の生命と精神を保たせるのも処刑官の大事な仕事である。ただ単に厳しい処刑をするだけでは受刑者が──特に精神が──すぐに壊れてしまう。鞭と飴が両方必要であり、その飴が、キリエの場合はもっぱらこの”授香フェロモン”であった。
他の多くの受刑者同様、この受刑者も授香開始直後は大いに抵抗の様子を見せたが、事前処置済みの体でこの授香椅子に拘束された以上、どんなにもがいても、彼の顔面がキリエの股間から逃れることは不可能だった。
結局、数分が経過した頃には彼の理性は溶け崩れ、嫌がるどころかむしろ自分から、さながら発情したトリュフ豚のように、その鼻面をさらに深くキリエのクロッチに埋め込んでいったのであった。
それにしても、一見するとただ股間の香りを嗅がせているだけにも見える”授香フェロモン”が、なぜ受刑者の精神にこれほど絶大な効果を発揮するのか?
実は、このフェロモンはただの物理的芳香ではなく、彼女の固有魔術なのである。
フェロモンには具体的に、主に下記の効果・特性がある
・ピッグス特効(普通の人間には効果がない)
・思考力を破壊
・性的快感の喚起(フェロモン吸引中は常に射精の比ではない極めて強力な性感が持続する)
・精神幼児化
・極めて高い依存性
ちなみに彼女がいま身につけているショーツとマイクロミニプリーツスカートもただの衣装ではなく、フェロモンをエンハンスするための特注の魔術具である。ショーツにはフェロモン濃度を任意に制御する”増幅魔術アンプリチュード”が込められており、スカートにはフェロモンを外部に漏らさないための”結界魔術バリアー”が込められている。
このように非常に強力な魔術・刑術である授香フェロモンだが、実はキリエにとっては、施術する相手を選びたい技でもあった。
この刑術ではピッグスの顔面──特に鼻面周辺──が、ショーツ越しの自分の秘所にかなり強く埋め込まれることになる。したがって、受刑者が泣いたりもがいたりすると、彼らの涎や鼻水や涙が付着してしまうことがあるのだ。一口にピッグスといっても、可愛い男の子から、むくつけき毛むくじゃらのオスまで様々だ。前者なら可愛いからまあ許せるが、後者だと正直辛い。そして、今回の受刑者は残念ながら後者であった。
密着せずに授香する方法も思いつかないわけではない。例えば布等に染み込ませたフェロモンを与える方法だ。だが、それはそれでどうも味気ない気がするのだ。やはり、受刑者の顔面を股間でむっちりと包み込んだほうが”支配してる感”があるし、スカートの中で発狂していく様子を感じ取るのもなかなか楽しい。
その他、受刑者の分泌物の付着を最低限に抑える方法としては、
・口の溶着 → 簡単だが喋れなくなるのはつまらない
・涙腺除去 → 涙を流せなくなるのでそれはそれでつまらない
・鼻腺除去 → これは良いかもしれない。練習してみよう……。
と、そんなことを考えながら、授香を続けるキリエ。
フェロモン濃度を少しずつ上げる。
そろそろ精神幼児化のフェーズに入る頃だ。この辺りで泣き始める受刑者もいるので、少し心配だ。
キミはお願いだから泣かないでよね、ショーツが汚れちゃうから。
だがキリエがそう思った矢先だった。
「んああああっ…… あっ、あっ、うぁっ、うぁっ、あああああああん!!!」
心配すればなんとやら。やっぱり泣き始めてしまった。
イラっときたキリエは心の中で毒づく。
(んもう…… どうして泣くかなー。このショーツ、魔術具だから洗うのも大変なんですけど!? あーもー決めた、明日は涙腺抉り取って瞼縫い付けてあげる! 覚悟なさい!)
だが、そんな心の声の猟奇っぷりとは裏腹に、実際に彼女の口から発せられたフレーズはプロフェッショナルなものだった。
「可哀想に…… そんなに今日の処置が辛かったんだね。もっと泣いていいよ、たくさん甘えなさい❤︎」
幼子をあやす母親のような口調でそう言うと、キリエは、股間に埋まって震えるピッグスの頭に手をやってその後頭部を押さえつけ、彼の顔を自身の股間によりいっそう強く埋め込んだ。
「オッ、オァァァァァァ……!!!」
クロッチにさらに深く埋没したピッグスが、悦びの悶声もんせいをあげる。
股間に感じる鼻息遣いで、彼が肺活量の限界まで懸命にフェロモンを吸いこんでいるのが分かる。
まるでミツバチにまさぐられる雌しべになったような気分だ。生理的な気持ち悪さもゼロではないが、自分の香りフェロモンをこんなに全身全霊で求めてくれるのはそれなりに嬉しいものだ。
とはいえ、このペースで呼吸させていたらすぐに過呼吸で酸欠になってしまいそうだ。
少しクールダウンさせてあげねばならない。
キリエはすうっと息を吸い、目を閉じる。
そしてその整った小ぶりな唇を開けると、そっと歌い出した。
瞼を閉じて 雷鳴はもう
世界の外側 悲鳴はもう
何にもない 世界の外側
痛みのない
心配のない
笑顔のない
苦労のない
何にもない 静かな穴へ
雷鳴はもう 世界の外側 何にもない 静かな穴へ
凛とした、かつ、どこか少女的柔らかさを含んだキリエの声質。
歌われたのは、古くからあるポピュラーな子守唄マザーグースだ。
そこはかとなく哀愁を帯びた、聴くものを鎮静チルアウトに誘う歌詞とメロディ。さらに、キリエは歌と同時に、”聖なる1/f ホーリーフラクチュエーション” という魔術を併用している。これは、音声に対してある種のノイズを付加することによってそれを聞く者に鎮静作用をもたらす、というものだ。使い勝手の良い魔術だが、疲れている時に使用すると、鎮静チルアウトが自分にも作用して眠くなることがあるのが唯一の欠点だ。
キリエは唄いながら、ピッグスの後頭部に添えた指で一定のリズムを取る。これも鎮静に効果的だ。
瞼を閉じて 雷鳴はもう
世界の外側 悲鳴はもう
何にもない 世界の外側
痛みのない
心配のない
笑顔のない
苦労のない
何にもない 静かな穴へ
雷鳴はもう 世界の外側 何にもない 静かな穴へ
子守唄を歌い終えると、まったりとした静けさが授香室に満ちた。
それはまるで、空気の粘度が上がり、まばたきの動きさえ重くなるような、そんな静寂だった。
股間のピッグスも、もはや微かなうめき声すら漏らさず、安心しきった赤子のようにおとなしく規則的に鼻呼吸を繰り返している。
一方キリエは、というと
「ふぁぁぁ………」
ネコ科魔獣の幼獣めいた可愛らしいあくびを漏らしている!
(んー……… なんか眠くなってきちゃった。ここしばらく処刑が立て込んでたからなー……… この子もおとなしくなったし、私もちょっとだけ目を瞑ってリフレッシュしようっと……)
……………………………………
…………………………
………………
……
Zzz……
Zzzzz………
Zzz………………………
Zzzzz………………………………
「一瞬の油断、一生の後悔」
この言葉は、この世界で広く伝統的に信仰されている宗教における七神のうちの一柱、秩序と法の神ポリスが人々に対して発したとされる警句だ。
聖典によれば彼の神ポリスは、人々が互いに憎しみ殺し合う混沌の世にどこからともなく現れ、その圧倒的武力によって世を平定し、秩序をもたらしたとされている。
彼は人々に六つの掟を課し、それを破った者たちを”インプリズン”という恐ろしい古代魔術で容赦なく罰したという。
聖典に書かれている彼の多くの警句は、こんにちでは子供達への道徳教育などで盛んに引用されている。
幼い頃のキリエも、大人たちから「ポリスがやってくるぞ」と脅かされると、夜も眠れないほど怯えたものだった。
◇ ◇ ◇
……
………………
…………………………
「ンーッ! ンモォォォォッッッ!!! モゴォ! モゴォッ!!!」
……ん………… もう朝? なんだか外がうるさいけど…… いいや、もうちょっと寝よ…………
「ンォォォォ!!! モゴォ! モゴォ!」
……ったく、何の音よ。もう少し寝かせてくれてもいいじゃない…………
「ンモゴォォォォ!!! オッ、オヴゥゥゥッッ!!!」
……ああもう………… うっさいなー………… あとさっきからなんか、スカートの中がもごもごしてるんですけど………… ん? スカート? ……って…………あれ? やっ、やばっ!!!!
一瞬で覚醒し、船を漕いでいた頭をばっと起こすキリエ!
「ンモォォォォォォォォォォォォ!!!」
スカート内からピッグスの激しい悶声もんせい!
なんたる失態ヒューマンエラー!
自分はどのくらい寝ていた?
十分? 二十分? いや、もっとか?
だが寝ていた時間以上に、増幅魔術アンプリチュードでフェロモン濃度を上げ続けたままだったことがまずい。
キリエは股間に埋まるピッグスの頭を見下ろす。
彼の無毛化処置済みの頭に浮かぶ血管はいまや超高速で脈打っており、その全身は小刻みに震えて大量の脂汗を浮かべている! 非常にまずい。これはフェロモン過剰吸引による”脳神経熱暴走オーバードライブ”の兆候だ。これを起こすと最悪の場合、脳を始め全身の神経が焼き切れて死んでしまう! この受刑者は処刑開始からまだ四日目、今死なせるわけにはいかない!
「ご、ごめん!」
キリエは思わず謝ると、授香椅子から立ち上り、急いで彼の拘束を解いた!
そして痙攣する彼を慎重に床に寝かせ、自身も床にぺたんと女の子座りし、彼の体を抱き寄せ膝枕の体勢を取る!
「あぼっ! あぼっ! あぼぼぼぼぼぼっ!!! あぼぼっ! ふぼぼぼぼぼぼぼっ!!!」
授香から解放されてもピッグスの悶絶と痙攣は止まる気配がない。
キリエは急いで彼の状態を確認する。
脈拍一分間に約四百、体温約四十七度C。
全身の筋肉痙攣、魔獣ハムスター並みの急ピッチ過呼吸。
眼球は毛細血管破裂、瞳孔収縮、不随意に回転運動。
口から舌を出して泡を吹き、全身に浮き立つ血管は高速で脈打っている。
そして下腹部では、先端を先走らせた強壮な彼自身が、蛇神コブラの鎌首めいて怒張!
(く……これは厳しいかも…………!)
受刑者の容体の厳しさを悟ったキリエ。ともあれ、やれることをやるしかない。
まずは過呼吸をなんとかしなければ。
そう思うが早いかキリエは、はらりと垂れ下がる美しい黒髪を耳にかき上げつつ顔を近づけると、泡を吹くピッグスの口に躊躇なく自らの口をかぶせ、マウスツーマウスで人工呼吸を開始!
んすぅーーーーーっ、ぱぁーーーーっ、んすぅーーーーーっ、ぱぁーーーーっ
んすぅーーーーーっ、ぱぁーーーーっ、んすぅーーーーーっ、ぱぁーーーーっ
んすぅーーーーーっ、ぱぁーーーーっ、んすぅーーーーーっ、ぱぁーーーーっ
んすぅーーーーーっ、ぱぁーーーーっ、んすぅーーーーーっ、ぱぁーーーーっ……
やがて人工呼吸がひと段落して過呼吸が若干落ち着いたのを見てとると、続けてすぐさま治癒魔術を詠唱開始!
慈悲深き<フローレンス>よ
我に其の力を貸し与え給え···
ちなみに<フローレンス>とは、この世界で広く伝統的に信仰されている宗教における七神のうちの一柱で、医療、治療・治癒を司る女神だ。聖典によれば、彼女は古き世界で起きた大いなる災いの際、卓越した治癒魔術で多くの人々を救った。その後は魔術を使えぬ民のために物理的医療技術の研究にも尽力した。そして死後、神の一柱に迎えられたとされている。
……其の癒しの火よ、我が捧げ持ちし誓いの燭に宿り給え!
詠唱を終えると同時に、胸の前で何かを捧げもつようにして組んだ掌上に、キャンドルめいて光り揺らぐ魔力塊が謎の風圧とともに発生!そしてそれは赤く輝く魔力粒子状に徐々に分解し始め、キリエの手を流れるように包み込んでいった!
(頑張って…… 必ず助けるから!)
ピッグスの体に治癒の魔力を流し込みながら、今にも泣き出しそうな顔でキリエは祈る!
◇ ◇ ◇
現実は非情である。
治癒魔術による治療開始から三十分。
キリエの懸命の努力も虚しく、哀れなピッグスは彼女の腕の中で息を引き取った。
「ああ……そんな……」
肩を落とし、頭こうべを垂れるキリエ。
彼女の落胆には二つの意味がある。
一つはむろん職務評価的な理由だ。
処刑官には、一人の受刑者につき七日の処刑期間が与えられている。
キリエは処刑官になってから、受刑者を七日未満で死なせてしまったのは今回で二度目だった。
一度目は新人の頃、死因はやはり授香中の事故で”脳神経熱暴走オーバードライブ”だった。
一応、規則上は七日未満で受刑者が死んでも問題はないことになっている。だが、全日数を使い切って受刑者に最大限の苦痛を与える、というのが管理局内の暗黙のルールであり、処刑官の実質的評価基準の一つとなっていた。
キリエの処刑官としての特筆すべきスキルは下記の三つだ。
・天才的外科処置技術による極限の人体改造
・超レアな治癒魔術による受刑者生命維持
・”授香フェロモン”による魅了、精神支配
前述の評価基準において、これらのスキルを駆使した処刑術が他の処刑官たちの追従を許さず、彼女は入局三年目、齢十八にして、ここ第七監獄の主任処刑官を務めているのである。
その主任処刑官たる自分がこのような失態を演じることはあってはならないことだった。しかも原因は、授香中に自分が寝落ちするという、あまりにもお粗末なミスである。人事評価上の減点は不可避であろう。
もう一つの理由はキリエの内面的なものである。
彼女は、自分は”入り込む”タイプだと自己分析している。
処刑期間中はその受刑者のことで胸がいっぱいになる。
処置の苦痛に耐えたり泣き叫んだり、授香でヘブン状態になったりしている彼ら。
また、食事を与えたり下の世話をしていると、まるで自分がその母親になったような気さえしてくるのだ。
そして処刑最終日には、それまでの頑張りを褒めたあと、フェロモン精製エキスをブレンドしたオリジナル遅効性麻酔剤を肛門と脳に点滴しながら授香し、究極の快楽の内に彼らを永遠の眠りにつかせる。
処刑完了後は泣いてしまうこともある。
それが彼女の処刑スタイルなのだ。
今回死なせてしまった受刑者に対して、きちんと最後まで処刑してあげられず申し訳ない、というのが彼女の今の思いである。
床にぺたんと女の子座りして、膝にピッグスの亡骸を抱くキリエ。
彼の苦悶に歪んで見開いた目をそっと閉じてやる。
痛々しい全身の処置痕を指先で優しくなぞる。
そして、計算ではない心からの言葉で語りかける。
「ごめんね……本当にごめんね」
ポロポロと落ちた涙が、過酷な戦いを終えた戦士の遺骸に優しく降り注いだ。
無音の授香室に、洟をすする音だけが響いている。
◇ ◇ ◇
どのくらいそうしていただろうか。
やがてキリエは立ち上がり、授香室備え付けの伝声管で事務局を呼んだ。
数分後、やってきた担当者に処刑結果を確認させると、泣き腫らした顔で本日は早退する旨を告げた。
そしてロッカールームで普段着に着替えると、足取り重く退庁したのであった。
第三章 Act.1 処置室への廊下
冷たく薄暗い石造りの長い廊下。
蛍光魔力灯の仄かな橙色の光が、等間隔で天井に並んでいる。
廊下全体はTの字型をしており、Tの横棒が100メートル、縦棒が50メートルほど。
横棒に面して、いくつもの金属扉が並んでいる。
カツッ………カツッ………カツッ………カツッ………
静寂の中にエコーするのは、石床を叩くピンヒール音。
特徴的なのは、音と音の間隔が異常に長いことだ。
普通に歩いているとすれば、かなりの歩幅の持ち主ということになるが……
「アアーーッッッ!!! みみっ! みみ! みみぃぃぃぃっっっ!!!」
と、そのピンヒール音をかき消すように響き渡る、野太い男の悲鳴。
何を訴えているか不明だが、その悲鳴は”みみ”というフレーズを繰り返している。
やがて、T字型廊下左翼の薄暗い闇の中から、二人の人物が浮かび上がった。
まずは、ピッグスの青年、ムータロ。先ほどの悲鳴の主だ。
筋骨隆々の体である。しかし、よく見るとシルエットがおかしい。手足が異常に短いのだ。ピッグスだから短いのは当然なのだが、それを考慮しても明らかに不自然な短さだった。それもそのはず、彼の四肢は両肘膝上で切断されていた。昨日、彼を”管理しやすく”するための処置として、処刑官キリエによって切断されたのだ。
そして彼は今、右耳をつまみ上げられて宙に浮いており、苦悶の表情で脂汗を浮かべている。
先ほどのへんな悲鳴は、この状態の苦痛を表現していたのだ。
そして彼の耳をつまんで持・ち・運・ん・で・いるのはもちろん、美しきエリニュス、処刑官キリエである。
2メートルを超えているであろう細身の長身。その三分の二を占めるに迫る長く形の良い美脚。
くびれた腰つき。キュッとしたお尻。
骨格自体が細いため痩せているように見える胴体。控えめな胸。しなやかで柔らかそうな腕。長い指。
小ぶりな頭部。十二頭身ほどあるだろうか。白皙の小顔。涼やかな目元、グレーの瞳。細く筋の通った鼻。尖った耳。小さく整った赤い唇、艶黒子。ポニーテールにまとめられた、美しい黒髪。
そしてその身に纏う異装。
フロント編み上げタイプの、黒いタイトフィットの魔獣皮製サイハイブーツ。踵はシルバーのピンヒール。
黒のガーターストッキング。太もも部分に赤い十字があしらわれている。
黒いタイトフィットの魔獣皮製コルセットと、それと一体化したプリーツマイクロミニスカート。
白い上品なブラウス。その両肩に赤い十字の刺繍。
首元を飾るフェミニンな赤いボウタイ。
黒いタイトフィットの魔獣皮製ロンググローブ。
軍帽とナースキャップを合わせたようなデザインの魔獣皮製帽子。前面に赤い十字マーク。
「あああ!!! みみっ!! いだぃっっっっ!!!!!」
再び響き渡るムータロの悲鳴。
「もう、さっきからうるさいわね。耳が痛いの? せっかく処置室まで運んであげてるのに、わがままな子。それならほら、離してあげるから自分で歩きなさい」
そう言って、ムータロをぽいっと放り出すキリエ。
ドサァッ!
「うぐぅ!」
手足が切断されているためうまく受け身を取れず、ムータロは苦痛に呻く。
「ほら、さっさと歩きなさい」
ムータロの苦悶など意に介さず、T字型廊下左翼部に面した一室、処置室の方を指してキリエが言う。
するとムータロは怯えた顔で一瞬キリエを振り返ったあと、
「う、う、うああああああああああ!!!!」
小型犬並みの高速ピッチ四足歩行で逃走を開始!
「あああああ!!! だえがぁぁぁ!!!!!!」
助けを求めて泣きながら、自由へと疾走するムータロ。
処置室を通り過ぎ、右折路を曲がり、T字型廊下の縦棒へと逃走!
腰に手を当て、やれやれ、という顔でそれを眺めるキリエ。
ムータロを追って、長い腕を振って悠然と歩き出す。
焦る理由はない。
一度このフロアに捕らえた以上、受刑者にはどこにも逃げる場所はないのだ。
ここは管理局主任処刑官である自分専用フロア。
T字型廊下の横棒に面して、各種の刑に対応した専用の部屋を設けてある。
そして縦棒の下端が、このフロア唯一の出入り口となっているのだが、キリエの魔力による認証でしか開かない仕組みになっている。
やがてキリエがT字型廊下縦棒の下端にたどり着くと、
「あ…あ……あああ……だえか………」
案の定、行き詰まりの扉にすがって絶望に泣き崩れているムータロ。
キリエはゆったりと歩を進め、ムータロをほとんど跨ぐような位置で立ち止まる。
「あーあ、逃げるなんて、悪い子だ」
腰に手を当ててはるか上空から見下ろし、幼子を叱る母親めいた口調で言う。
「ああああ……おごらないで……くらはい……」
魔獣アルマジロめいて丸まって泣き震えるムータロ。
(やば……ちょっと可愛いじゃん)
ムータロのそんな姿を見て、キリエは少し遊んでみたくなった。
「ムータロくん、怒らないから顔をあげなさい」
心なしか優しげなキリエの声。
懇願が通じたのか?
ムータロはほのかな期待を抱き、恐る恐る顔を上げる。しかし次の瞬間、
ドガァ!
長い脚による遠心力の効いたサッカーボールキックが顔面に炸裂!
「うっ、ゔぇぇぇぇぇ!!!」
鼻血をぼたぼた垂らし、首を縮こめ、体を丸めた防御姿勢でムータロは悶絶!
「おっ…おごらないって……いっだ、のにっ…!」
悶えながらもムータロはしっかりと抗議! しかしキリエは!
「ふふ、蹴らないとは言ってないじゃん❤︎」
ムータロは後悔! 選択は不正解!
そして数十秒後、ムータロの悶絶がひと段落つくと、
「ほらムータロくん、蹴らないから顔を上げてごらん❤︎」
再びキリエが言う。
だが先ほどの一発で学習したムータロは今度は顔を上げようとしない。すると次の瞬間、
ドボォ!
長い脚による遠心力の効いたサッカーボールキックが脇腹レバーに炸裂!
「んゔぇぇぇぇぇっっっっ!!! んゔぅぅぅぅっっ!!! おゔぅぅぅ!!!」
ダンゴムシのように丸まって、右に左にのたうちまわるムータロ!
「さっ…さっぎは、蹴ったっのにっ、なん…でっ!」
悶えながらもムータロはしっかりと抗議! しかしキリエは!
「蹴らないから顔を上げてって言ったでしょ? 言うことを聞けない子には罰があって当然だよね?」
ムータロは後悔! 選択はまたしても不正解!
そして数十秒後、ムータロの悶絶がひと段落つくと、
「……ごめんね。私、意地悪だよね?」
キリエは急にしおらしい口調になって言う。
だがその言葉自体は疑問形で終わっている。すなわち、ムータロは何かを答えなければならない!
どうする、何を言えばいい? どうすれば蹴られずに済むのだ?
答えに迷うムータロ。すると次の瞬間、
「質問してるんだからなんとか言いなさいよ!」
キリエ激昂! そして!
ドボゴォッッッ!
長い脚による遠心力の効いたサッカーボールキックが尾骶骨に炸裂!
「うぎゃっ! あっ、あああああーーーーっっっ!!!!
海老反りになり、括約筋を締めて肛門付近の筋肉を硬化させ、苦痛に耐えるムータロ!
そして数十秒後、ムータロの悶絶がひと段落つくと、
「そろそろ遊びは飽きたわ。ほら、処置室はどっちだっけ!? 私レディを案内エスコートしてごらん!」
ピンヒールをカツカツ鳴らしながらキリエがイライラした口調で言う。
ま、まずい。キリエの怒りボルテージがさらに上がる気配を見せている!
早く処置室へと歩かなければならない!
しかし、先ほどからのサッカーボールキックのタメージによって体がいうことを聞かない!
「う…ううう…あ、あるぎますから……ちょっと、まっ…」
なんとか歩きだそうとする姿を見せるムータロ。しかし、
ドボォ!
懸命なムータロに対し、さらに無慈悲なサッカーボールキック!
「うぼぁ!!!」
転げるムータロ!
カツッ………カツッ………カツッ………カツッ………
キリエのピンヒール音が悠然と迫ってくる。
早く、早く歩かなければまた蹴られてしまう!
「う……ううう………」
よろよろ立ち上がるムータロ。しかしそこに、
ドボォ!
さらにサッカーボールキック!
「ぐえぁ!」
廊下を転げるムータロ。
カツッ………カツッ………
ドボォ! サッカーボールキック!
「ぐぼぁ!」
カツッ………カツッ………
ドガァ! サッカーボールキック!
「うぼぇ!」
カツッ………カツッ………
グボム! サッカーボールキック!
「ぐぶぅ!」
カツッ………カツッ………
ドボム! サッカーボールキック!
「ぶひぃ!」
無慈悲なサッカーボールキック嵐と、それに応えるムータロの多彩な悶声もんせい!
文字通りボールのように蹴り転がドリブルされ、処置室へと運ばれていくムータロ!
やがて、処置室の扉の前にたどり着いた時には、ムータロは既に虫の息である。
プシュー、ゴゴゴゴゴ……
キリエが扉に手をかざすと、重い音を立てながら、その絶望の扉が開いていく。そして、
「さ、”処置室”だよ❤︎」
頬を朱に染めた拷問の女神が、見下ろして告げたのであった。
「ぅぅ…ぅぁぁぁぁぁぁ…………ぃゃ…ぁぁ…」
処置室の入り口で、ムータロはキリエを見上げ、か細く懇願!
しかしキリエは!
ドムゥッ!
尻込みするムータロの尻を蹴って容赦なく処置室にイン!
処置室は、キリエのメイン刑術である人体改造処置を受刑者ピッグスに施すための部屋である。十五メートル四方ほどの広さで、黒いタイル張りの室内を白い蛍光魔力灯が明るく照らしている。
部屋中央には処置台。
ピッグス専用に設計されたサイズ。
処置する体の箇所によってフレキシブルに構造や拘束の向きを変えられるようになっている。
「さ、処置台に移すよ❤︎」
キリエはムータロの首根っこを掴んで持ち上げる!
「んあああああああ!!!!!」
ムータロは抵抗!
しかし、ちょうどキリエの親指が首のツボに入り、力が入らない!
キリエは手際よくムータロを処置台に拘束していく!
ムータロの胴体と頭と口を、それぞれ処置台から伸びる拘束帯で捕縛!
あっという間に処置台への拘束が完了!
「ふぐぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!! んぐぅぅぅぅぅぅっっ!!!!」
ムータロは全身の筋肉に全霊の力をみなぎらせて恐怖の処置台を脱しようと試みる!
しかし、その拘束はほんの1マイクロメートルほども緩む気配すらない!
「さてと、はじめよっか❤︎」
真上から見下ろして微笑んで告げるキリエ。
その彼女の左手に携えられているのは、銀色に鈍く輝く注射器シュリンジ!
「フガァァァァァァァァァァァァ!!!! アッ、アアアアア!!!!」
注射器の中身を察したムータロは恐慌を来して絶叫!
当然、麻酔などであるはずがない!
「ふふ、まずはムータロくんが大好きな”鋭敏剤”を打つね❤︎」
「ほぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」ムータロ絶叫!
さらにキリエはさりげなく絶望を付け加える。
「あ、昨日はあくまで事前処置だったから一番弱い鋭敏剤を使ってあげたけど、今日は刑としての人体改造よ。強めのお薬を使うからね❤︎」
恐るべき宣告!
ムータロは戦慄!
昨日のあれが”一番弱い”鋭敏剤だと?
それでさえ目玉が飛び出すほどの超絶激痛だったというのに、今日、その”強めのお薬”とやらを使われてしまったら、一体どうなってしまうのだ?
「はい、あーん……」
キリエがムータロの口の拘束具を操作すると、彼の口が強制的に開かれ、その舌が口外へ伸長されていく!
「さ、ちくっとするよー……❤︎」
キリエの注射器がムータロの舌へと近づいていく!そして、
プスリ。
「オァァァァァァァァァァァァッッッッッッ!!!!!!!!!!」
ムータロの絶叫が処置室に響き渡る! 顔面の筋肉が痙攣し、脂汗を浮かべている!
「もう少し奥まで刺すからね……」
キリエはゆっくりと丁寧な動きで舌の奥に針を進めていく!
「オァァァッッッッ……! ンッ、ンンンンンンッッッッ!!!」
侵入する針の痛みに涙ぐんで悶絶するムータロ!
「ふふ、やっぱり痛がり屋さんだね。ほら、お鼻でゆっくり呼吸しましょうね……すぅーーーーっ、はぁーーーーっ、すぅーーーーっ……」
優しくなだめるキリエの声。そのリズムに合わせ、ムータロの呼吸が少しずつ静まっていく。
薬液は残酷なほど緩慢に注入されていく。
呼吸を乱さぬよう懸命に耐えるムータロ。
二、三分ほどたち、やっと注射器が抜かれた。
「はい、よく頑張りました❤︎」
キリエは優しく微笑んでムータロを褒め、彼の口の拘束具を外す。
鋭敏剤の注射が終わったため、口の拘束が不要になったのだ。
「さてと、まず最初の処置は……」
そう言って真上から見下ろすキリエ。
そして彼女の手に携えられているのは、あ……ああ、こっ、これは!!!
昨日の事前処置でムータロの四肢を両肘膝上で切断した、あの恐怖のリング型器具である!
この器具=”切断輪アンピュテーションリング”は、リングの内側のブレードが徐々に狭まることで受刑者の手足を切断アンピュテーションする、という恐るべき処刑道具である!
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!! いっ、いやっ!! それっ、やべでぇぇぇぇぇっっ!!!」
初日の切断のトラウマで恐慌をきたしたムータロは泣きながら懇願!
しかし、キリエはムータロの両腕の付け根と両足の付け根に切断輪アンピュテーションリングを無慈悲にセット!
腕と足の付け根に感じる、ひんやりと冷たい金属の感触!
さらにそれは鋭敏剤の影響によって、無数の針で突き刺されるような痛みに徐々に変化していく!
「あああーーーーーっっっっっ!!!! だっ、だえがぁぁぁぁーーーーぅあーぅあーっ!!!」
ムータロは泣きながら、決して来ることのない助けを求める!
「ムータロくん、聞きなさい。今後はもう四足歩行訓練のようなお遊びはしないわ。だからキミにはもう、その”切り株”すら不要よ。わかるわね? さっきみたいに逃げたりしないように、キミを完全に”丸めて”あげる」
そう言ってキリエが軽く触れて操作すると、リングの径が狭まり始めた!
「んびぁーーーっっっっ!!! あっ、あっ、あああああああーーーー!!!」
リング内側のブレードが皮膚に食い込み始めた感触を察知したムータロは、叫びを一段とアップ!
徐々に、しかし確実に、リングはその径を狭めていく!
◇ ◇ ◇
(ギリギリ……ギリギリ……)
「ンゴァァァアァッッッ、ンッ、ンンンッ!!! アアアッッ……!!!!!」
開始から五分、顔面を真っ赤にして苦悶の表情で耐えるムータロ!
切断輪アンピュテーションリングは残酷な緩慢さでそのブレードの径を狭めていく!
◇ ◇ ◇
開始から十五分が経過!
「あぼぼぼぼぼぼぼ!!! おぼぼぼぼぼぼっっ!!!」
真っ赤な顔で泡を吹き、痙攣し白目を剥きながら耐えるムータロ!
「頑張れ、ムータロくん! ファイトー❤︎」
キリエはそんなムータロを応援! 時折ガーゼで彼の額の脂汗を拭ってあげている!
◇ ◇ ◇
そしてムータロにとっては永劫に等しい苦痛に満ちた三十分後、
ギリギリギリギリ・・・バキッ・・・バキバキッッ・・・バキム!!!
不吉な音とともに、リングの径がゼロになった!
「おんぎゃぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーっっっっっっっ!!!!!!!!」
ムータロ今日一番の絶叫!
◇ ◇ ◇
「ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」
切断の痛みが過ぎ、荒い息をつくムータロ。
両肩と両脚付け根の切断面からは血は出ておらず、綺麗な切り株となっている。
これは、切断輪アンピュテーションリング自体に治癒魔術が込められ、切断と同時に傷口を塞いでいるためだ。
心を占めていた痛みが過ぎ去ると、その隙間に絶望が侵入して来る。
「あ……ああ……ああ……」
嗚咽をもらすムータロ。
これで自分はもう、四足歩行すらできない。
動きたければ、”運んでもらう”しかないのだ。
しかし、ムータロがそんな絶望に浸る暇もなく、キリエは事務的に続けるのであった。
「さてと、次の処置は………」
「ねえムータロくん、キミの体って、蹴り心地が良くないよね? さっき廊下で蹴ってた時、固くて蹴りづらいなー、って」
処置台に拘束されたムータロを真上から覗き込んでキリエが言う。
”蹴り心地が良くない”だと……?
そんなことを言われても、ムータロにいったいどうせよというのだ?
だいたい、自分は蹴られるために生まれてきたわけではない!
込み上げる怒り。しかしそれを表現することはできない。
キリエの機嫌を損ねたら、何をされてしまうか分からない。
彼の心の大部分は既に、キリエへの恐怖に占められていた。
「だってほら、こんなに筋肉もりもりで固いもんね」
キリエが繊細な指つきでムータロの腹筋をなぞる。
「ンッ、ンアーーーーーッッッ!!!」
鋭敏剤の効いているムータロは、そんな繊細なタッチでさえ超激痛として感じてしまう!
「あ、ごめんね。まだお薬が効いてるよね❤︎」
と、キリエは意地悪少女めいた笑顔で、”てへっ”と謝罪!
「実はそんなキミにぴったりの、とっておきの飲み物ドリンクがあるんだ…❤︎」
そう言ってキリエは処置室の隅に向かう。
ムータロは嫌な予感しかしない。
やがて、カラカラと車輪が転がる音が近づいてくる。
処置室の隅からキリエが運んできたのは、巨大なボトルの吊り下げられた車輪付きスタンドであった。おそらく30リットルほどであろうボトルには正体不明の白い液体が充填されている。
「ほ……ほえわ……?」
これまでとは趣の異なる不安を感じ、ムータロは問う。
「これ? ふふ、カトブレパスの魔獣乳ミルクだよ」
魔獣カトブレパス。
主に草原地帯に住む四足歩行の重量級魔獣だ。
性格は極めて凶暴で容易には近づけないが、脂肪分が9割以上を占めるその魔獣乳ミルクの強烈な味わいにはコアなファンがおり、市場で高値で取引されている。
「ま、もちろん”そのまま”じゃないわ。これは吸収魔術ドレインが込められた魔術加工栄養食ソウルフードよ。本来は餓死寸前の相手に使うような、非常用食なんだけどね。吸収効率が極めて高いから、飲・ん・だ・分・は・ほ・ぼ・全・て・脂・肪・に・変・換・さ・れ・る・わ。キミがこれを飲み干せば、体・重・の・半・分・が・脂・肪・に・な・る・、ってとこかな❤︎」
さらっとエグいことを言う処刑官キリエ。
体の半分が脂肪になるだと?
ただでさえ四肢切断されたこの体。十分に”丸まって”しまったこの体をさらに”丸める”というのか!?
ムータロは自分の体に対し素朴な誇りを抱いていた。
矮躯ではあるが、鍛え上げた鋼のような筋肉。
この体で、幾多もの死線をくぐり抜けてきたのだ。
四肢を切断されたとはいえ今も、胸や腹や背中などのこの見事な隆起と割れ具合は、彼にとって小さからぬ精神の拠り所となっていた。
だが、この残酷無比の処刑官キリエは、ムータロからそれすらも奪おうというのだ。
「や……やべろぉぉぉぉ!!!! いやがぁぁぁぁぁぁ!!! あああああああ!!! うおぁあああああああああ!!!!!」
ムータロは悲痛な絶叫!
しかしキリエは!
「ダメよ」
あまりにも端的に拒否!
そして手際よくムータロの口にボトルから伸びるチューブをセットし、ボトル口を緩める!
ボコボコボコ……
チューブを下る魔獣乳がムータロの口に流れ込んでいく!
魔獣乳強制注入の開始である!
◇ ◇ ◇
(うぉぉぉぉぉぉぉっ…! のっ、飲んでたまるものか……!)
ムータロはありったけの闘志を込めて喉の筋肉を閉じ、魔獣乳をシャットアウト!
するとキリエは!
「ふふ、ちゃんと飲まない子には……」
しなやかな親指と人差し指をムータロの顔に近づけ、
「はい、息でーきない❤︎」無慈悲に鼻をつまむ!
「んごぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!」
呼吸困難でパニックに陥るムータロ!
思わず喉を緩めてしまう!
すると激流のごとき勢いで魔獣乳がボトルからなだれ込む!
みるみる膨れていく腹。
「ふぐぅぅーーーーーーっっっ!!!!」
悶えるムータロ。
あっという間に彼のお腹は、母乳を飲みすぎたネコ科魔獣の幼獣のようにポンポコリンになってしまった!
しかしボトルにはまだ8割以上残っている!
ボコボコボコ……
チューブを下る魔獣乳!
(ぐぉぉぉぉぉぉぉ……っ! や、やはりこれ以上飲むわけにはいかない!)
ムータロは再び喉の筋肉を閉じ、魔獣乳をシャットアウト!
するとキリエは!
「ほらぁ、ちゃんと飲まない子には……」
しなやかな人差し指をムータロのお腹に突きつけ、
「ぷにぷにぷに〜❤︎」腹をぷにぷに!
「うぼぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
ただでさえはち切れんばかりの腹を人差し指でぷにぷにされ、ムータロは悶絶!
喉の力が抜け、魔獣乳の激流が胃袋に流れ込む!
ムータロのお腹はさらにポンポコリンになっている!
しかしボトルにはまだ半分以上が残っている!
ボコボコボコ……
チューブを下る魔獣乳!
(のっ、のみだく…ない…! のみだぐ……ないっ!)
どうあがいても絶望!
それでもまだ奇跡を信じ、ムータロは全精神力を動員して喉の筋肉を閉じ、魔獣乳をシャットアウト!
するとキリエは!
「あははっ! ほんと頑張り屋さんだね❤︎」
ムータロを褒める! そして!
「でもこれならどうかなー?」
ロンググローブに包まれた両手をムータロの脇腹の肋骨のくぼみににあてがう!
こ、これは!
「くりくりくり〜」脇腹を高速でくりくり!
「おぼぼぼぼぼぼぼぼぼっっっ!!!!! あぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼっっっ!!!!!」
高速フェザータッチくすぐりにより、ムータロは悶絶&失禁!
今度こそ完全に喉の力が抜け、魔獣乳の激流が胃袋に流れ込む!
そして彼のお腹はもう、とにかく大変なことになってしまっている!
だが見よ、ボトルももうすぐ空になりそうだ!
ボコボコボコ……
チューブを下る魔獣乳………!
◇ ◇ ◇
身体膨張の苦悶。懸命の呼吸を繰り返す中。
はじめに感じたのは視野の異常であった。
(な…なんだ? 視界が下から狭まって……)
視界の下のほうから何かがムクムク盛り上がってきているのだ。
(あ、あ、そんな……!)
ムータロは戦慄した。
この色、この感触、やはりそうとしか考えられない。
そう、これは彼の”ほっぺた”である!
膨張した頬の脂肪が彼の視野を狭めてきていたのである!
「う、うぁぁぁぁぁぁ………」
嗚咽を漏らし、ムータロは泣き出した。
魔獣乳が、”本当に脂肪に変換”されてしまっている現実を目の当たりにし、心が耐えきれなかったのである。
◇ ◇ ◇
そして、魔獣乳強制注入開始から三十分。
ついにボトルが空になった。
30リットルの魔獣乳を、ムータロは飲みきったのだ。
吐き気。
頭痛。
腹痛。
目眩。
呼吸困難。
視野狭窄。
脂汗。
震え。
涙。
失禁。
「飲みきったね。頑張るじゃん……❤︎」
膨張し歪んだムータロの顔を、キリエは優しく愛撫する。
その顔の中、脂肪に埋もれて黒目がちになった眼まなこは、涙が小さな水たまりとなっていた。
幕間2
夕暮れ前の人並みで賑わう商店街バザール。
食料品、日用品をはじめとして、交易品、骨董品、武具店、魔術具店、食べ物屋台、服飾装身具店、ヘアサロン、水タバコカフェ、怪しげな占い等まで、様々なショップが屋根付きの街路に並んでいる。
その中に、ひょろっと長いキリエの姿があった。
周りの人々よりも軽く頭二つは大きい。
そして当然だが、服装はあの処刑官スタイルではない。だいぶ地味目でシンプルな私服である。
白いブラウス、インディゴ染色された綿ズボン、ぺったんこの革製婦人靴パンプス、ポニーテールにまとめた髪。そして、いかにも秀才ガリ勉女子、といった風の丸眼鏡ロイドを着用している。
彼女は今、食料品店で香辛料スパイスを吟味している。
受刑者用の食事の材料を切らしてしまっていたのだ。
こういった買い物は基本的には管理局の経費で落ちる。主任処刑官であるキリエは比較的自由にそれを使える身だ。とはいえ上限はあるため、費用を抑えつつ最高の料理を作るためにしっかり吟味して選ぶことが重要なのだ。
(ン、こんなもんかな)
食料品の買い物を済ませ、今夜の料理メニューを考えながら、うきうき気分でいざ受刑者ピッグスの待つ管理局に戻ろうとしたその時だった。
「あら、キリエちゃん?」
背後から、名を呼ぶ声。
聞き覚えのあるその声に思わずぎくりとするキリエ。
(う、この声は……)
恐る恐る振り向いたキリエの視線の先にいたのは、七十代半ばほどの老婦人である。
年齢の割には大柄な体格。三日に一度のサロン通いで維持しているという、ボリューミーでふんわりとしたブルネットヘアー。華美ではないが上品に整えられた身なり。もとから朗らかな作りの顔にさらに満面の笑みを浮かべてこちらを見上げている。
「マ、マーガレットさん。お久しぶりです……」
「んもーぅ、随分見なかったじゃない。1ヶ月ぶりくらいかしら? 寂しかったのよ、お茶の相手がいなくて。ううん、本当はいるのだけど、歳をとると若い子とお話しするのが楽しいのよ。なんだか自分まで若返ったような気がするもの。今日は商店街バザールでお買い物? どれどれ何を買ったのかしら、あら、ずいぶん通好みの香辛料スパイスだこと。さすがキリエちゃんね。きちんとお料理できる若い子は今時珍しいもの。そういえばお役所のほうは相変わらず忙しいの? そう、でもいいことだわ。あなたみたいな優秀な子が暇してたら社会の不利益だものね。あ、そうそう、ちょっと聞いてくれるかしら? んもーぅ、うちのトーマスったら昨日ね……」
二人の出会いは半年ほど前に遡る。
道で転んで腰を痛めていたマーガレットを、たまたま通りかかったキリエが治療したのだ。マーガレットはお礼にとキリエを自宅に招待し、それ以来、キリエは時々彼女のお茶の相手にされていた。彼女はキリエの”今時の若い子には珍しい”礼儀正しさや教養の広さをとても気に入っており、トーマスという自分の二十歳の孫に会わせたがっているのだが、今までのところキリエはなんとかそれを避けることに成功していた。面白いのは、彼女はキリエがエリニュスであることをさして気にしていないようなのだ。
「あ、あの、マーガレットさん、わたしちょっと急い……」
「んもーぅ、少しぐらいいいじゃない、あなたの人生はまだまだ長いんだから。急がば回れって言うでしょ。てきぱきするのも大事だけど、心の余裕も必要よ。そうすればいい人との出会いも自然に訪れるわ」
マーガレットのマシンガントークのインターセプトを試みたキリエだったが、あっさりとかわされた挙句、返す刀で彼女にとっては避けたい方面の話題に持っていかれることとなった。それでも、処刑時以外は基本的に温厚な常識人である彼女は忍耐強くマーガレットの相手をする。
「で、でもほら私、こんなですし、なんていうか、その、普通の人とは……」
キリエはジェスチャーで自分を示しながら言う。すると、
「んもーぅ、何言ってるの。女の子が自分の身長のことなんて気にしちゃダメよ。本当にいい男だったらそんなことは気にしないものなの。それに、キリエちゃんはとっても可愛らしい顔をしてるもの。本当に妖精のお姫様みたいよ。それでもどうしても気になる? 大丈夫、そういうことなら私に任せなさい。うちのトーマスは運動をしていたから背は大きいの。あなたよりは少し小さいけど、並んでも十分釣り合うわ」
ある種の高齢の女性が備える曲解能力で、こちらの言葉をことごとく自分にとって都合よく読み替えてしまうマーガレットに、なす術のないキリエであった。
「あら、それともキリエちゃんにはもういい人がいるの? あらやだショック。そうだったのね。私ったら、ほんとごめんなさいね。んもーぅ、歳をとると……」
「い、いえ、そういうわけではないです!」
マーガレットによる既成事実化を慌てて阻止するキリエ。いや、これは阻止しないほうがよかったのだろうか?
「あ! あらやだ、忘れてたわ。今日はこれから息子夫婦が来るんだったわ。もう来てるかしら。早く帰らなきゃね。んもーぅ、嫌よねぇ、歳をとると忘れっぽくなっちゃって。それじゃ、キリエちゃん、あとで”ゲート”で伝言送るわね。お時間あればお茶にいらっしゃって」
言いたいことをほぼ一方的に言い終えると、老婦人はちゃきちゃきした足取りで去っていった。
ちなみに”ゲート”とは、この世界で広く普及している小型遠隔通信魔術器のことだ。名称の由来は、聖典に登場する七神のうちコミュニケーション・情報・言語・技術を司る神の名前が”ゲイツ”で、開発者がそれにあやかって命名したのである。
”ゲート”は発売されるや否や爆発的に売れ、今では一家に一台必ずある、と言っていいほどの普及を見せている。
(はあ…… よかった、戻れる)
嵐が去って一息ついたキリエ。
マーガレットのことは嫌いではないが、お孫さんに会わせようとするのは勘弁願いたかった。いっそ彼女と連絡を絶てばいいのかもしれないが、人の縁というものの代え難さを思い、なかなかそうもできない自分がいる。もっぱら祖父に育てられたせいだろうか、自分の性格にはどうもそういう古風なところがあるとキリエは自覚していた。
(いい人、かぁ……)
キリエは先ほどのマーガレットとの会話を思い出す。
ごめんなさい、マーガレットさん。トーマスくんに会ったことはないけれど、きっと私にとっての”いい人”ではないと思います。もちろん、マーガレットさんのお孫さんなら好青年に違いないって思いますけど、でも、私にとっての”いい人”っていうのは………
その時キリエの脳裏に浮かんだのは、
(xxxくん……)
心の中で、処刑執行中のピッグスの名を呼ぶと、下腹部からの思いが燃え上がって来た。
ちんちくりんの可愛い体に施してあげたたくさんの人体改造処置。
四肢切断、抜歯、切開、切除、ピアッシング、ワイヤリング、顔面整形、超肥満化……
泣きながら頑張って処置の痛みに耐えているときの顔……
足元から見上げる、くりっとした可愛い瞳……
そしてなにより今、彼は管理局地下七階で私の帰りを待ってくれているのだ。うん、決めた。今日は最高のご飯を作ってあげる。そして明日は久しぶりに、オールナイトでハード人体改造処置をしてあげよう。それはもう、あんなことからこんなことまで……ふふふ……
周囲を歩く人々は想像すらしていまい。自分が今こんな妄想に耽っているなどとは。
(う、やべ、妄想で鼻血出そう。ダメじゃん、こんな街中で……クールダウンしなきゃ)
鼻と口を押さえ、深呼吸を繰り返すキリエ。
母親に連れられた6、7歳くらいの子供が、その様子を不思議そうに見て通り過ぎた。
初夏の西日が、石造りの街路を暖めている。
その中を、心なしか頬を朱に染めて、キリエは今度こそ帰路を急いだ。
第三章 Act.4 ブレックファスト・イン・ザ・ゲストルーム
処刑開始から三日目の朝。
昨日同様、レア魔獣体毛をふんだんに使用した高級ベッドでムータロは目覚めた。
だが昨日と決定的に違うのは、一・矢・報・い・る・チ・ャ・ン・ス・を・探・る・な・ど・と・い・う・こ・と・は・考・え・も・し・な・い・、ということだ。
もはや反撃の気力はない。彼が願うのは、一刻も早い安らかな死のみである。
──このベッドから落ちれば死ねるのではないか──
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
ムータロは顔を横に向け、視点位置で高さを測った。
(低い……)
昨日朝は1.5メートルほどあったが、今は30センチほどしかなさそうだ。
ベッドの昇降機能で低く設定されたのだろう。
この低さでは、どう頑張って落ちたとしてもせいぜいたんこぶが出来る程度だ。
それにそもそも、現在の肉体的状況──根本からの四肢切断、超肥満化──ではベッド上を這って移動することすら困難である。
自殺のチャンスは無いと見た方がいいだろう。
ベッドが低いのもおそらく、昨日ムータロがベッドから落ちていたことを受け、落下自殺の可能性を察知したキリエが対策を講じたのだ。むろん、それ以外にもあらゆる可能性を封じているに違いない。
反撃不可。
自殺不可。
となれば、もはや残された戦いは一つだった。それは、
──いかにして、キリエに優しく処刑してもらうか──
これは敗北主義ではない。
自分は十分に戦ったはずだ。
そう、こ・の・よ・う・な・肉・塊・に・な・る・ま・で・戦ったのだ!
もういいではないか。
もう休ませてくれ。
少しでも楽に逝かせてくれ。
散って行った仲間たちだって、きっとそれを許してくれるはずだ。
自分にそう言い聞かせることで後ろめたさを振り切り、ムータロは思考を続ける。
優しく処刑してもらうためには何が必要だ?
それはやはり、キリエの歓心を買うことだ。
そのためには?
まず、従順さと礼儀正しさはマストだ。
決して反抗的な態度を取らないこと。
キリエの責めに懸命に耐える姿を見せること。
会話のチャンスがあれば最大限それを活用すること。
他にも、あんなこと、こんなこと…………
…
……
…………
ムータロは虚空を見つめながら思考に没頭していたが、やがて、
ガチャリ。
「……ッ!」
出入り口の扉が開く音。反射的に身がすくむ。
カツッ…カツッ…カツッ…カツッ……
ゆったりと近付くヒール音。
音と音の間隔の長さは、その人物のストライドの異常な長さを表している。
やがてヒール音はベッドの頭の脇で停止。
ムータロの額には脂汗が浮かび、ベッドにはその人物の影が落ちる。
ムータロは地上30センチ、ほぼ真下からその人物を見上げた。
高くそびえる美脚。それを包むタイトフィットの黒い魔獣革製サイハイブーツ。
白い太股、黒いショーツ、黒いガーターストッキングの三位一体が織りなす魅惑的絶対領域。
黒いタイトフィットの魔獣革製コルセットと、それに付属した黒のプリーツマイクロミニスカート。
白い上品なブラウス。その両肩に赤い十字の刺繍。
首元を飾る、細身のフェミニンな赤いリボンタイ。
黒いタイトフィットの魔獣革製ロンググローブ。
白皙の小顔。黒髪ポニーテール。
美しき拷問の女神エリニュス 、処刑官キリエである。
†
「おはよ、ムータロくん❤︎」
後ろ手を組み、わずかに腰をかがめ、真上から見下ろしてキリエが言う。
昨日の激昂の痕跡をまったく感じさせない穏やかな口調と、愛玩用小動物に向けるような微笑み。
「おっ、おはようごゔぁいっ、まふ」
ムータロは万が一にもキリエの機嫌を損ねることのないよう、礼儀正しく目を見て”ご挨拶”をする。
初日の全抜歯に加え、昨日の超肥満化の影響で滑舌はかなり不明瞭になっている。
「お、ちゃんとご挨拶してくれたね。昨日随分処置したから、てっきり心を閉ざしちゃってるかと思ってたけど」
キリエは眉を上げて感心したように言った。
それを見てムータロは心の中で小さくガッツポーズ。作戦どおり。まずは1点先取だ。
そのままなにがしかの会話が始まる流れかと思われたが、しかしキリエは先ほどの姿勢のまま無言でムータロを凝視している。
なんだろう。ひょっとして、自分はいま何か彼女の気に触ることをしてしまっただろうか?
ムータロが不安と焦りを感じ始めた頃、キリエが沈黙を破った。
「ふふ、こうして改めて観察しても、ずいぶん丸・々・と・可愛くなったよね❤︎」
「…………!」
心を突き刺すキリエの言葉。
ムータロの心の拠り所であった長年鍛え抜いた鋼の肉体は、キリエによる”処置”で、たったの二日で無残な肉塊へと変わり果てたのだ。
前頭葉が爆発しそうなほどの悔しさ。しかしこの戦いにおいて、それは決して、表情にすら出してはならない。
「そうそうムータロくん、朝ごはん食べる? 昨日の夜食べなかったもんね」
「はい、たべまふ! きりえはまのりょうり、だいふきでふ!」
ムータロは元気よく返事!
「ふふ、ありがと。嬉しいこと言ってくれるじゃん。いいよー、それじゃ、美味しいの作ったげるから待ってなさい❤︎」
そう言ってキリエは部屋の隅のキッチンに向かった。
そしてロンググローブを外しエプロンを着用すると、なにやら鼻歌を歌いながら調理を始めた。
(よし、いいぞ。さっきの言葉はよく耐えた。あと料理を褒めるのはかなりポイント高そうだ。この調子だ…)
ムータロはまた心の中でガッツポーズ。これで2点先取だ。
† † †
20分ほど後、モーニングプレートと水差しの乗った給仕カートを押してキリエが戻ってきた。
「こないだ市場に怪鳥ドードーの卵が入ってたから買っておいたんだけど、それでエッグタルトを作ってみたわ。本格焼きだと時間がかかるから魔術具で手早く焼いちゃったけど。でも、食べやすいように柔らかく仕上げてあるからね」
香ばしい粉物系炭水化物の匂いがムータロの鼻腔を刺激する。
ものすごくうまそうな匂いである。
ムータロは一昨日のハンバーグとビスクを思い出す。
生まれてこのかた、あんな美味しい料理を食べた覚えがない。
レジスタンス生活で美食に縁が無かった自分が言うのも何だが、このキリエという女は料理人にでもなったらいいのではないか? 確実に才能があると思うのだが……
と、ムータロがそんなことを考えているうちに、キリエはベッド上の邪魔にならなそうなところにプレートを置くと、
「ちょっとお邪魔するよ」
と言ってベッドに上がり込み、ヘッドボードに背を預けて投げ足座りの体勢となる。
そして脚の間にムータロの体をすっぽり収めると、太股で上から優しくホールド。
更にムータロの頭を自身の股間に引き寄せると、一旦頭を上げさせ、その下に枕を敷いた。
(こっ、これは……ッ!)
思いがけない唐突な密着にムータロは若干動揺!
的確な表現が見つからないが、この状態は、あえて言うなら”股枕”と呼ぶべき体勢だろうか?
視界には、顔の脇から体を遥か通り過ぎ、ベッドの端まで爪先が届かんばかりの長い脚ロングレッグズ。
改めて思うが、何という長さなのだろう。
平均的体格の成人ピッグスが彼女と並び立てば、おそらく膝上ほどにしか届かないだろう。
そして意外にも、というか、長さを考えれば当然なのだが、キリエの脚はずしりと重い。
だが、不思議とそれは”苦しい重さ”ではなかった。
言うなればそれは”柔らかく頼もしい重さ”。
その重さにこうしてホールドされていると、あたかも親鳥の翼に包まれる雛になったような、不思議な安心感があった。
「じゃ、食べよっか」
キリエは傍らに置いた置いたタルトをスプーンでひと掬いし、
「あれ? ”いただきます” でしょ?」
幼子を優しく叱る若い母親めいて言った。
「い、いたらきまふ!」
準密着したキリエから香るフェロモン香水パフュームの影響で、若干幼児化した口調でムータロが答える。
「ン、いい子。はい、あーん……」
ムータロの口にタルトを乗せたスプーンが差し込まれる。
タルトを舐めとり、舌と上顎で咀嚼する。
もにゅもにゅ……もにゅもにゅ……
(こ、これは…!)
一言でいうと、超激ウマだった。
クドくはないがパサパサにもならない絶妙の焼き加減のカスタード生地。
この国の国王も大好物だと言うドードーの卵の濃厚な風味。
ほのかに香るバニラエッセンス。
生地の隙間に挟み込まれたアプリコットジャム。
それらは口内に含むと柔らかくすんなりと溶けあい、渾然一体となって奏でられる味覚のハーモニーと化した。それはあたかも計算し尽くされたオーケストレーションめいて、各おのが各おのを引き立てていた。
レジスタンス時代にもエッグタルトを食べたことはあったが、作ってくれた仲間には悪いが、これとは全く別種の食べ物ジャンクであった。
「どう? お口に合ったかな……?」
少し心配そうな口調でキリエが尋ねる。
「ふんごくおいひぃでふ!」
ムータロが本心からそう答えると、心なしかキリエの頬が朱に染まったように見え、太股によるホールドが一瞬力を増した気がした。
「そっか、よかった。さ、どんどん食べて❤︎」
キリエは少女のような笑顔で、本当に嬉しそうに笑った。
† † †
「ねぇ、ムータロくんってさ、どうしてレジスタンスになったの?」
朝食を終えたムータロの口の周りを丁寧に拭いながらキリエが問うた。
「なるひか、なかっだでふ…」
ムータロは端的に、真実だと思うことを答えた。
そして、
8歳で収容所から脱走。
荒野での行き倒れ。
組織に拾われたこと。
といった、レジスタンスとなった経緯を要点をかいつまんで話した。
「そっか。キミ達は生まれてすぐピッグス収容所ファームに行・く・んだよね」
「………………!」
”行く”のではない。”放り込まれる”のだ。
キリエが何気なく用いたであろうその言い回しが、刺さった。
ムータロからすれば、その言い回しができるということ自体が、自由を持って生まれた者の特権のように思えたのだ。だがそれを口にするようなことはもちろんない。
キリエが続ける。
「キミはなぜ戦おうとするの?」
キリエのざっくりした質問。
数秒の沈黙。
ムータロが口を開く。
「ひゃかいはなえ、ぴっぐふをおとひめまふか?」
言ってから、ムータロは少し後悔した。
質問を質問で返すというのは、挑戦的でいかにもまずい。
だがなんとなく、今なら何を言ってもキリエは怒らないような気もしていた。
戦う理由などいうまでもない。
社会はなぜ、ピッグスを貶めるのか?
それは、ピッグスがピッグスであるからだ。
そして自分はピッグスとして生を受けた。
生まれてきた以上、自分の境遇シチュエーションを良くしようともがくのは、誰だろうと当然のことではないのか。
「そうだね。ほんと、人間って差別が好きだよね」
やはり、キリエは怒らなかった。
「そういえばさ」
ふいに、キリエが話題を変える。
何事かと心構えるムータロ。
すると彼女はぷい、とムータロから視線をそらすと、意外な言葉を口にした。
「……昨日は廊下でたくさん蹴っちゃってごめんね」
「……え?」思わぬ言葉に思わず聞き返すムータロ。
「処刑部屋の外であんなことをするなんて、普段はないんだけど、昨日はなんか……ごめん」
まるで兄に謝罪する妹のような口調だ。
キリエは一体どうしてしまったのだ? 素はこんなキャラだったりするのか?
この調子だと、ひょっとすると今日はずっと会話で刑無しという可能性も見えてくるが……
と、ムータロは胸に微かな希望を抱く。
しかし、続くキリエの言葉が、それをあっさり打ち砕いた。
処刑官はやはり処刑官であった。
「さてと。ご飯も食べ終わったし、そろそろ処置室に行こっか」
「ッ…!」
「どうかした?」
「…い、いえ、なんれも、ないれふ……」
「抱っこしてあげたいけど重すぎるから、移動式拘束架スパイダーを使うね」
キリエはムータロを淡々と拘束。
「さ、行くよ」
移動を告げるその声は、心なしか少し沈んでいるようだった。
第三章 Act.5 度し難きもの、それは
処置室。
キリエのメイン刑術である人体改造処置を受刑者に施すための部屋である。
広さは十五メートル四方ほど。
黒いタイル張りの室内を白い蛍光魔力灯が明るく照らしている。
部屋の中央に処置台。材質は不明だが、奇妙な有機的質感を持った曲線的形状で、頭部、胴体、手足を支える部位がそれぞれ分離し、施術内容や受刑者の体に合わせてフレキシブルに可動する機構になっている。
「じゃ、処置台に移すからね」
移動式拘束架スパイダーの拘束を解き始めるキリエ。
そのキリエの手際に、黙して身を委ねるムータロ。
瞑目し、声も上げず、非常に落ち着いているようにも見える。
しかしその心中は………
怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い怖痛い怖い怖い怖い怖嫌だ怖い怖い怖い
怖い、怖い、怖い、怖い!
今日の処置がどんな内容かは不明だが、例によって想像を絶する痛苦が待ち受けているはずだ。
だがここで嫌がって暴れたりすれば、”優しく処刑してもらう”という目的が遠のいてしまうだろう。
ここが頑張りどころ、この戦いの峠なのだ。
そんな悲壮な覚悟を以ってしての、この静かな受刑態度である。
「さてと。それじゃ持ち上げるよ。せーの、よっ………ッと」
キリエはムータロの超肥満化した重たい体を女の細腕で抱き上げ、壊れ物を扱うように繊細に、処置台にそろりとセットする。
ムータロは抵抗の様子も見せず、されるがままに従順に、キリエの手に身を委ねている。
セットを終えると、キリエはふぅっと一息つき、今度は処置台への拘束に取り掛かる。
処置台への拘束だが、ムータロが根本からの四肢切断&超肥満化していることもあり、これまでとは違った拘束手法であった。
まず、黒いゴムキャップのようなものをムータロの四肢の切断面にかぶせる。
するとゴムキャップは四肢切断面に強力に吸着する。
その後、ゴムキャップ頂点についている金属リングを処置台の拘束用チェーンに接続する、というものだ。
ちなみにこの黒いゴムキャップのようなもの、名を吸着式保護帯マグキャップといい、それ自体は医療一般に用いられる創傷保護帯である。
ただし、いまキリエが使用しているものは、吸着部分に海魔クラーケンの吸盤を用いて吸着力と強度を高めるとともに、受刑者の四肢切断面にフィットするようなサイジングを施してある。さらにこれにチェーン接続用金属リングを取り付けることで、処置台への拘束用具として機能するよう改造したものだ。
「ン、これでよし、っと」
拘束作業を終え、キリエが一息ついて、手をパンパンと軽く叩き合わせる。
そして、
「ねぇムータロくん、一つ質問なんだけどさ」
と、切り出す。
ムータロはなんとなく嫌な予感がした。
「ど・う・し・て・今・日・は・そ・ん・な・に・い・い・子・な・の・か・な・?」
ドキィ!
「一昨日も昨日もあんなに暴れたでしょう? 今日はどうしちゃったのかな、と思って」
ムータロは考える。
どうする。なんと答える?
これはおそらく返答次第で何かが大きく変わりそうな、クリティカルな質問だ。
直感的にそう思った。
数瞬の思考の後、乾いた喉に唾を飲み込むと、やがてこう答えた。
「”ひょひ”をうけうのが、おえのうんめい、でふ」
「……ふーん、”処置を受けるのが運命”ね。ま、口ではそんなこと言っちゃって、一皮剥けば何を考えているやら。どうせ昨日みたいに、私に一矢報いるチャンスを伺ってるんでしょう?」
意地悪な目つきでキリエが問い返す。
「ほッ、ほんなごど、ないれふ!」
「ほんとかなー……、なんか信じられないなー。嘘だったらわたし、たぶん怒り狂っちゃうよ?」
”嘘だったら怒り狂う”。
そのフレーズは、ムータロの心胆を寒からしめるものがあった。
ムータロは思わず自問する。俺は嘘をついたのか?
いや、俺は嘘をついていない。なぜなら、運命が存在すると仮定するのなら、こうして処置を受けるのも運命ということになるから、先ほどの答えは嘘ではない。そして、”一矢報いるチャンスを伺っていない”というのも本当だから、一皮剥いても何もやましいことなどない!
と、ムータロは小役人めいた小賢しさで、自分の発言を心の中で正当化する!
「じゃ、確かめてみよっか?」
唐突で端的なキリエの提案。
「え……? はひかめう、っへ……?」
ムータロは意味がわからずきょとんと答える。
「キミが本当に悪いことを考えていないか、一皮剥いて確かめてあげる❤︎」
不穏な言葉を残し、キリエは処置室の隅に向かう。
一皮剥く、とは一体如何なる意味だろう?
不安に駆られるムータロ。
程なくして、キリエは白いシーツの被せられた車輪付き台を押して戻ってきた。
ムータロの額にはじっとりと脂汗が浮かぶ。
「さ、これを見て❤︎」
おもむろにシーツを外すと、そこには、シルバーに輝く注射器が数本!
大小のメスと鉗子が数本!
そして、背中から腹に回すベルト式開創器!
「ほ……ほえわ……?」
「ふふ、見ての通り、注射器とメスと鉗子だよ。それとこっちは、切開箇所を開いて固定しておくための道具」
「あ…ああ、あああ、ほ、ほんな……!」
処置内容をうすうす察したムータロが思わず絶望の嗚咽をあげる!
そしてキリエは、ム・ー・タ・ロ・が・い・ま・最・も・嘘・で・あ・っ・て・ほ・し・い・と・願・う・言葉を告げた。
「今から、これを使ってキミのお腹を剥いて見てあげる❤︎」
† † †
「ちょっと処置台が動くからね…」
そう言ってキリエが何やら操作すると、処置台のムータロの背中の部分が山のように隆起し始める!
「ふぐぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!!」
ムータロは苦痛の声を上げる。はたから見ればお腹が少し張る程度の反りなのだが、超肥満化した彼にとっては、それだけでも多大な苦痛なのだ。
「ン、苦しいだろうけど我慢して。こうしてあげるとお腹の皮膚が張り詰めるから、処置する私は切開が楽だし、受刑するキミはより鋭敏に痛みを味わえる。聖典に出てくる古代の箴言があるでしょ? ”二兎を追う者は一兎も得ず”ってやつね」
(くぁぁぁぁぁっっっ! それを言うなら”一石二鳥”だろうが! このバカ女がぁぁぁっっ!!!)
ムータロは心の中で激しいツッコミを入れる!
しかし実際の声には出さない!
万が一にもキリエの機嫌を損ねるようなことがあってはならないからだ!
処置台の変形が完了する。
真上から覗き込むキリエの嗜虐的なグレーの冷たい瞳。
怖い。叫び出したい。暴れたい。
だが、それをしてしまったら、”優しく処刑してもらう”という目論見はどうなる?
やはりここが勝負どころだ。耐えろ。耐えるのだ!
ムータロは自分にそう言い聞かせる。
「じゃ、鋭敏剤を打つからね❤︎」
ムータロの口に開口器をセットし、それを操作するキリエ。
ギリギリギリ……!
強制的に口外に伸長されていく舌!
「ングゥーーーーーッッッ!!!」
ムータロ悶絶!
「さ、ちくっとするよー❤︎」
左手に構えた注射器を、ゆっくりとムータロの舌に近づけるキリエ!
(く、来る!)
ムータロはきつく目を閉じ、我慢の構え!
プスリ。
「オァァァァァァァァァァァァッッッッッッ!!!!!!!!!!」
ムータロの絶叫が処置室に響き渡る!
顔面の筋肉は痙攣し、脂汗を浮かべて悶絶している!
「もう少し奥まで刺すからね……」
キリエはゆっくりと丁寧な動きで舌の奥に針を進めていく!
「オァァァッッッッ……! ンッ、ンンンンンンッッッッ!!!」
侵入する針の痛みに涙ぐんで悶絶するムータロ!
「相変わらず痛がり屋さんだね。ほら、お鼻でゆっくり呼吸しましょうね……すぅーーーーっ、はぁーーーーっ、すぅーーーーっ……」
優しくなだめるキリエの声。そのリズムに合わせ、ムータロの呼吸が少しずつ静まっていく。
薬液は残酷なほど緩慢に注入されていく。
呼吸を乱さぬよう懸命に耐えるムータロ。
二、三分ほどたち、やっと注射器が抜かれた。
「はい、よく頑張りました❤︎」
優しく微笑んでムータロを褒めるキリエ。
「ハァーーーッ、フゥーーーーッ……」
注射が抜かれたことに安堵し、脂汗を浮かべながら深く呼吸を繰り返すムータロ。
しかし!
「じゃ、ちょっと切れ目を入れていくよー……」
ムータロが息つく暇もなく、キリエは軽い調子でそう言うと、全く躊躇なくムータロの腹に縦にメスを入れる!
プリリッ
ムータロの張り詰めたポンポコリンの腹の皮は、メスを入れるといともたやすくプリリと切開される!
「ぽぎゃぁぁぁーーーーーーっっっ!!! ぴぎっ! ぴっぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
張り詰めた正中線がぱっくり開かれてゆく感触!
その痛苦のおぞましい堪え難さに、ムータロは半狂乱の悲鳴!
「ン、痛いですねー……。頑張りましょうね」
キリエは、泣き叫ぶ患者を落ち着かせる母性的看護婦ナースめいた声音で、ムータロを優しく応援!
そして精密なメスさばきで、切開を続行!
プリリッ
「うぉあーーーーーーーーーーーっっっっ!!!」
プリプリッ
「ひぎぃーーーーーーーーーーーっっっっ!!!」
プリッ、プリッ
「くぁーーーーーーーーーーーーっっっっ!!!」
プリプリプリプリッッッ
「ほんぎゃぁーーーーーーーーーっっっっ!!!」
「ン、綺麗に切れたね❤︎」
切開第一段階完了を告げるキリエの声。
ぱっくりと縦に切開されたムータロの腹。
皮膚と脂肪の層が裂かれ、露出する腹筋。
しかし、傷口からはほとんど血が流れていない。
これは、処置用のメスにあらかじめ治癒魔術が込められており、切開と同時に切れた血管を塞いでいるためだ。
「フゥッ、フゥッ、フゥッ、フゥッ………!」
全身に脂汗を浮かべたムータロは、一定の呼吸をを保つことで苦痛を和らげようと懸命!
「さ、次は……」
キリエは、あらかじめムータロの背中の下を通していたベルト式開創器の先端のフックを、彼の腹部切開口の皮膚に引っ掛ける!
「ぷぎゃああああああああっっっっ!!!!」
フックが腹の皮を貫いて引っ張る感触にムータロ悶絶!
「ちょっとずつ開いていくからね❤︎」
キリエが開創器を操作!
するとそれは少しずつ、残酷な緩慢さでムータロの腹部切開口を広げていく!
ミリミリミリッ……
「うゔぅぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーっっっ!!!」
キリエはムータロの腹筋を傷つけないよう気をつけながら、開創器の開腹スピードに合わせ繊細なメスさばきで皮下組織と筋肉を剥離していく! そして剥離のたびに少しずつプリプリ剥けていくムータロの腹の皮!
プリッ
「ほぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!! あっ、あっ、あっ、あっ!」
プリプリッ
「んぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!!! いっ、いっ、いっ、いっ!」
プリッ、プリッ
「むぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!!! うっ、うっ、うっ、うっ!」
なんたる地獄WTH!
† † †
処置開始から30分ほど。
ムータロの腹部は中心から左右にそれぞれ10センチほど剥かれた状態となっていた。
初めての切開処置としてはこのくらい、といったところか。
あまりやりすぎるとムータロの精神が壊れるリスクがある。
まだ3日目だ。今日はこの辺りにしておこう。
キリエはそう思い、処置の仕上げにかかる。
「よっ…と」
キリエは柔術でいう上四方の体勢、つまりムータロの顔を跨ぐポジションで作業をし始めた。
彼女としては全く他意は無く、単に作業的にやりやすいのでこのポジションをとったのだ。
しかしムータロにしてみれば、顔面をスカートにふんわり覆われ、鼻先3センチには黒ショーツの股間!
両側頭部は白く柔らかな絶対領域にむっちりとホールド!
そして、フェロモンこそ放出されていないが、それでもスカート内にほのかに香るあの甘い香り!
(あああ、や、やばいっ! いい匂いすぎる!)
ムクッ…ムクムクッ……
徐々に屹立していく、とある部位!
自分の意思とは無関係に、自らの男性自身が反応してしまう!
できれば精神力で鎮静させたいところだが、今はこの開腹処置の痛みを受けきることに精一杯で、そこまで対処できない!
本能とは度し難いものである。
”鋭敏剤を投与の上で、正中線からお腹の皮を剥かれる”。
かような過酷無比超絶苦痛の処置を受けている最中だというのに、それでもムータロの陰茎は、見よ、いまや完全なるフルボッキを遂げているではないか!
「ったく。こんな痛いことをされてる時でも大きくなっちゃうんだもんね。ほんっと、男の子って」
流石に手を止め、少し呆れた声で言うキリエ。
そして、ペニス先端の尿道スリット付近を、軽くデコピン!
ズビシ!
何の気なしにおこなったその行為だったが、次の瞬間、予期せぬ出来事が彼女を襲った。
ドゥッ、ドゥピュゥッッ!!!
ムータロの下腹部でいきり立つその怒張的器官から、乳白色の液体が勢いよく放出されたのだ!
そしてそれは、あろうことか彼女の顔面に着弾!
腹部切開作業に没頭するあまり、顔を近づけ過ぎていたのが仇となった!
「ゔっ!!!!!」
短い悲鳴をあげてメスを床に取り落とし、仰け反るキリエ。
そして顔面を襲った液体の正体を手で確かめる。
白く濁った色合い。
指先で糸を引く粘着性。
そして海魔クラーケンの干物めいた独特の臭いスメル。
こ、これは…!
「こ、これって……い、いやぁーーーーーーーーーーっっっ!!!」
なんたる悲劇WTT!
ムータロの精子スパームがキリエの顔面に射精されたのである!
あまりのおぞましさに絶叫するキリエ!
ここだけの話だが、実はムータロはかなりの絶倫家であり、平均で日に3回、最低でも1回は自慰行為を行なっていたほどだった。だが、管理局に捕らえられてからはもちろんその種の行為は不可能であったため、結果、溜まりに溜まった白いマグマが先ほどのキリエの何気無いデコピンの刺激で暴発してしまったのである!
「いやぁーーーーーっっっ!!! もうっ! 目に入ったしーっ!!!!」
「なんなの!? ほんとしんじらんない! あーん、くさいよー!」
「あぁーーーっっっ、んとにっっ!!! っざけんな! マジざけんな!!」
処置室に響き渡るキリエの悲鳴と罵声!
それを聞いて戦慄するはムータロ!
キリエのここまでの罵声を聞くのははこの三日で初めてだ!
(あ、ああ…お、おれはなんてことを……!)
「うぇぇぇっっっ! げぇっ、げぇーーーっ!!!」
キリエは処置室隅に小走りすると、処置道具洗浄用シンクで嘔吐!
うぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!!
げぇぇぇぇーーーーっっっっっ!!!
…………………
…………
……
第三章 Act.6 ペニサイゼーション
精子顔射事件から数分後。
カツッ…カツッ…カツッ…カツッ…
顔の洗浄を済ませたキリエが、処置室の隅からゆったりと迫る。
「ああああーーーーーっっ、おゆうひくあはいぃぃぃぃーーーーーっっっっ!」
火を見るより明らかなキリエの怒りに対し、ムータロは懸命の謝罪の叫び!
しかしムータロの叫び虚しく、やがて彼の頭上に現れたのは、怒りに燃えて見下ろす赤い瞳!
これまでに見たときよりも数段赤さが濃い!
昨日の激昂でさえここまで赤くはなかった!
「本当にキミは、私を怒らせるのが好きだよね……!」
ムータロを真上から覗き込み、静かな怒りをみなぎらせて言う。
「さっきのさ、おもいっきし目に入ったよ……!」
「あ、あ、ああああああ!! おゆうひくあはいぃぃぃぃぃっっ!!」
ムータロは心の底から震え上がって再度許しを請う!
「これが悪いのかな? この醜い肉の棒が!」
キリエは鉗子を手に取ると、ムータロの先ほどまで怒張していた器官をギリギリと絞りあげる!
「あっ、あうああああーーーーーーーーっっっっ!!!」
自らの分身を絞り上げられる苦痛にムータロ悶絶!
そして、その苦痛から逃れるためか、こんなことを口にした。
「きいえひゃまのっ、ふかーほのなかがっ、いいにおいでっ、お、おえ、がまんえきあかっあえふぅ!」
キリエのスカートの中がいい匂いで、我慢ができなかった。素直な言葉である。
対してキリエは、
「我慢できなかったって? それじゃキミはまるで自分のおちんちんの奴隷じゃない! ったく、レジスタンスが聞いてあきれるわね!」
「お、おどごわっ、みんなっ、ほうでふぅっ!」
「へぇーっ。男の子はみんなそうなんだ。もしかして、キミたちの脳みそは頭じゃなくてこれに入ってるのかな?」
「ほ、ほえがおどごでふぅっ!」
「ああそう。だったらキミなんてもうお・ち・ん・ち・ん・に・な・っ・ち・ゃ・え・ば・いいんじゃない!? どうせソコでしか物を考えられないんでしょう? お似合いだわ! そうよ、キミなんておちんちんになればいいのよ!………………って、キミが、おちんちんに……? キミが、なってしまえばいい……? そっか……。そっか! そういうことね! それよ! 」
灼熱の赤い怒りの中、唐突にキリエに訪れた天啓の瞬間。
怒りは一瞬にして引いた。
「ムータロくん! 新しい処置を試すわよ! 今思いついたの! そうよ、キミが”おちんちんになって”しまえばいいのよ! やば、すっごい楽しそう! ありがとう、キミのおかげよ!」
「や、や、や、やめでぐらはい! やべえぐらはい! やべでぐあはいぃぃぃぃっっっ!!!!」
キリエが何を思いついたのかは不明だが、それはムータロにとって嬉しい内容であるはずがない!
ムータロはストップを懇願!
しかし、アイディア降臨でテンションの上がったキリエには、もはやムータロの声など全く聞こえていなかったのであった。
† † †
「まずは邪魔な毛を除去するわ」
そう言うとキリエは、強力除毛ワックスをムータロの頭部に塗り始める!
頭髪、眉毛、まつげ、全てに満遍なくたっぷりと塗布!
そして塗布後1分ほど。
「さ、一気に行くわよ」
キリエは皮膜化した除毛ワックスを遠慮なく一気にひっぺがす!
プチプチプチプチプチッッ!
プチプチィッッ!
プチッ、プチィッ!
「いっ、いっ! いだっ! あっ、あっ! いっ、イィーーーッッ!!!」
悲鳴をあげる毛根!
引っぺがされた皮膜化ワックスには、ムータロの頭部の全毛髪!
あっという間にムータロの頭部無毛化が完了!
†
「よし。次は耳よ!」
サクッ、プリプリプリッ…!
そう言うとキリエは、全く躊躇いなくムータロの両耳をメスで切除!
「おああああっっっ、みみっ! みみぃぃぃぃぃぃっっっ!!!」
そして、
ポイッ
傍のダストボックスに切り取った耳を廃棄!
「あああああああーーーーーっっっ!!! おえのみみぃーーーーっっっ!」
あっという間にムータロの耳切除が完了!
†
「次はキミの顎を肩に埋め込む処置よ」
そう言うとキリエは、ムータロの頭と首周り数カ所に、注射器で鋭敏剤を大量投与し始める!
プスリ キュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……
「おっ、ぴゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
プスリ キュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……
「きゃっ、ぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっっ!!!」
プスリ キュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……
「ぽあっ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
プスリ キュゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……
「ぴっ、きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!」
矢継ぎ早に打たれる注射針が肉深く侵食する感覚に、ムータロは多彩な悶声!
「ン、埋め込みラインはこの辺りかな……」
鋭敏剤注射を終えるとキリエは、ムータロの下顎の骨のラインに沿って、後頭部を経由して頭を一周するようにマーカで線を引く。
そしてメスを手にすると、マーカに沿って皮膚を切開して行く!
プリッ、プリプリッ
「むっ、きゃぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!! いでぇーーーーっっっっ!!!」
そして素早い手際で切開完了!
「次はこっちね……」
続いてキリエは、今度はムータロの首の付け根を一周するようにマーカで線を引く。
そしてメスを手にすると、マーカに沿って皮膚を切開していく!
プリッ、プリプリッ
「ぶっ、びぃぃーーーーーーーっっっ!!!! いでぇーーーーっっっっ!!!」
そして素早い手際で切開完了!
「よし! さあ、くっつけるわよ……」
気合い一拍!
キリエはムータロの首の肉と顎の肉の皮膚を切開したところ同士をくっつけ、丹念に縫合していく!
プチッ、プチッ、プチッ、プチッ……
「ぎゅっ、ぎゅえぇぇぇぇぇぇっっっ!!! あぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!! いでっ、いでぶぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」
例によって素早い手際!
その調子で、ものの小一時間ほどで、頭部埋没処置が完了してしまった!
†
「じゃ次は、ワイヤーで顔を絞ってそれっぽくするわよ」
キリエは細ワイヤーのフックをムータロの鼻の穴と口に引っ掛けると、ワイヤーが頭を一周するように巻きつけていく!
「ぶぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーっっっっっ!!!!」
ボンレスハム状に変形するムータロの顔面! 完了!
†
「最後よ。キミの頭を整形してアレの形にするわ」
アレとは一体!
だがムータロがその答えを見出す暇もなく、キリエは手早く準備を行う。
「肉質の形成にはこれが使えそうね……注入量はこのくらいかな……」
言いながら、キリエが分量を吟味しているのは、粘獣スライムシリコンと呼ばれる物質である!
粘獣スライムシリコンとは、魔獣スライムの外皮を加工して生成される動物性マテリアルで、魔術具への使用はもちろんのこと、日用品や、果ては豊胸等のインプラント系整形医療にまで幅広く使用されている。汎用性が高く、魔獣由来の素材としては比較的簡単に手に入るため、前述のようにあらゆる局面で重宝されているが、近年では乱獲による野生スライムの減少が危惧されている。
分量計算を終えたキリエは、数本の極太の注射器に粘獣スライムシリコンを充填!
「さ、ブスッといくわよ……」
キリエの手に構えられた極太注射器がムータロの無毛化された頭部に迫る!
そして!
ブスリ
「あおああああああああっっっ!!! いっ、でぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっっっ!!!!」
ブスリ
「きょええええええええっっっ!!! あっ、ぴぃぃぃぃぃぃぃぃぃっっっっっ!!!!」
ブスリ
「んむぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!! おっ、ぱぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
ブスリ
「おぼぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!! ぴっ、ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!」
何本もの極太注射器による、ムータロの頭への粘獣スライムシリコン皮下注射が開始された!
数分かけて注射を終えると、キリエは思い出したように呟いた。
「あ、ついでにあ・れ・もやっとこうかな」
彼女は鉗子を使って、処置室隅に置いてあったビンから何か細長いうごめくものを取り出すと、
「ムータロくん、ちょっとだけ耳の穴がくすぐったいからね」
ムータロの耳にそれを挿入!
モゾッ、モゾモゾ……
耳の穴から何かが侵入してくる感覚にムータロ悶絶!
「ふ、ふがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!! みみっ、みみぃっっっ!!!」
視界がフラッシュし、何かが吸い出されていく感覚!
ズリズリズリッ!
耳穴から細長いそれが引き抜かれる。
「ン、もう大丈夫だよ。ごめんね、くすぐったかったね」
いったい今のはなんだったのか!?
だがムータロが答えを見出す暇もなく、処置は手際よく続行される。
「よし、あとはうまく頭の形を整形して……」
メスを手に、処刑官が言った。
† † †
そしておよそ2時間後。
「ふぅっ…。終わったよ。ムータロくん、どうしよ、すごい処置ができちゃった……!」
キリエは上気してムータロの語りかけるのだが、ムータロは自身がどのような状態になったのかはっきりとはわからない。
「見たい? 見たいよね? いいよ、見せてあげる!」
キリエはムータロの返事も聞かず、処置台を可動させ、寝ているムータロの体を縦に起こすと、その正面に、どこからか持ってきた姿見を置いた。
「じゃーん❤︎」
「名付けて、ムータロ式頭部男根化処置ペニサイゼーション!」
ムータロは、その姿見に映ったものが自分だとは、到底思えなかった。いや、思いたくなかったというのが正しい!
そこに写っていたのは、まさに巨大な男根ペニスと呼ぶべき形状の肉塊であった。
粘獣スライムシリコン注入とその後の整形術により、亀頭カリ型にデザインされた頭部。
頭頂には尿道口状の縦スリットが一本。
首は肩の肉に埋没して肉が溶着、その上で丹念に縫合されている!
処刑官キリエ、魂の込もった会心の処置であった。
挿絵(By みてみん)
「あ……ぁぁぁ……!!! おぁぁぁ……、あっ、ああああああああああああ!!! なんあごえぇぇぇぇぇぇっっ!!!! なにごえぇぇぇぇっっっ! おおああああああああああああっっっっ!!!! ああああああああああああああああああっげふっ!!!!!!!! おああああああああああああああああああああああっっっっっっ!!!! あっ、あっっ、あああああああああああああ!!!!!! ごろふっ、ごろいえやぅぅぅぅぅぅぅぅっっっっ!!! おわあああああああああああああああああああああん、ごろひえやぅぅぅぅぅっっ!!!おああああああああああああああああああああああああああああんっ、げほっ、げほっ、あ……あああああ!!! おああああああああああああああああああああん!!!!」」
それは、全てを奪われた生き物が発する、悲痛と呪詛と絶望の叫びであった。
「うん、我ながらいい出来❤︎」
ムータロの悲痛な絶叫をよそに、キリエは自分の処置の出来栄えに満足!
「そうそう、ところでさ、今日はなんか大人しかったけど、結局何だったのかな?」
もはや全てがどうでもよくなったムータロはあっさり白状した。
一矢報いることは諦めたこと。
少しでも優しく処刑してもらうために従順に振る舞ったこと。
それを聞いたキリエは、
「あははははっっ! そんなことだったんだね。何か企んでるなー、とは思ってたけど」
そしてこう続けたのであった。
「ムータロくん。私は昨日言ったよね。キミを、人体の極限まで処置するって。キミは絶対に、私の”処置”から逃げられないわ。人体改造の最果てに連れていってあげる❤︎」
それは、ムータロを完全なる絶望へと突き落とす一言であった。
第四章 Act.1 記憶蠕虫
王都の夜。
アップタウンの一角の、とあるアパートメント。
最上階の隅の一室。
「いただきます」
信心深く合掌のポーズで食物への感謝の呪文モージョーを唱えたキリエは、食卓上の黒ガラス瓶を手に取った。
キュポッとその栓を開け、黄金色の液体を透明なグラスに注ぐ。
シャワシャワ弾ける白い泡がグラス上部に溜まる。
キリエは泡を上手に避けながら麦酒ビアを一気に飲み干す。
テーブルにはいつもより多めの料理ディッシュ。どれも精魂込めて自ら作った手料理だ。
頭部男根化処置ペニサイゼーションという新たなる処置を開発したことを祝う、祝杯ひとり酒である。
「はぁーーーっ……美味しい❤︎」
ネコ科魔獣の幼獣のように、可愛らしく泡のついた唇をペロリ。
「ン、始まったね」
キリエは、空・中・に・映・し・出・さ・れ・た・自・分・の・姿・を見て呟いた。
これは、記憶蠕虫メモリ・ワームによって吸い出したムータロの記憶を、専用の魔術具で再生しているのだ。
今夜の真の酒の肴メインディッシュである。
ちなみにムータロは、今夜はそのまま処置台に拘束してある。
処置が終わってもいつまでも泣き止まなかったので、罰として放置することにしたのだ。
オムツも履かせてきたし、一晩くらいは大丈夫だろう。
記憶蠕虫メモリ・ワームとは、ある種の吸血蠕虫を魔術的に品種改良し、血液の代わりに記憶を吸うように改造したものだ。
今日の処置の際、キリエがムータロの耳に挿抜していたのはこれである。
もともとは諜報機関向けに開発された魔術生命体だったが、ちゃんと吸い出せる記憶が直近2~3日のものに限られ、それ以前の記憶は断片的かつランダムにしか吸い出せないという仕様、もとい欠陥があった。そのため、今ひとつ使い勝手に難ありと評され、必然的に在庫過剰となっていた。その余剰品処分として管理局の処刑官達にも無償提供されたのだが、彼らからの評判も概ね芳しいものではなく(そもそも処刑に必要あるのか?等)、使用している者はほぼ皆無といってよかった。しかしキリエは、記憶蠕虫それにとある用途を見出していた。
それは……
「んー……。やっぱりもう少し急角度から見下ろしたほうが怖さが出るかな……」
どうすれば受刑者ピッグスにより強い恐怖を与えられるか。
どうすれば受刑者ピッグスをよりたくさん泣かせられるか。
受刑者ピッグス視点からの自分の映像を客観的に見ることで、そういったことの勉強ができるのである。
料理をゆっくり味わいながら、視聴を続けるキリエ。
再生が授香室のシーンに差し掛かる。
映像の視点は先ほどからある一点に集中している。
「ったく……スカートの中ばかりじろじろ見ちゃって。悪い子だ」
酒のせいか、それともまた別の理由のせいか、頬を少し朱に染めて呟く。
映像の中のキリエが着用しているのは、コルセット一体型のマイクロミニプリーツスカートである。
魔獣革サイハイブーツのハードさと対照的な、ヒラッとしたフェミニンなデザイン。
股下5cmに満たない短さは、少しかがめば簡単に尻が見えてしまう。
いわんや、ちんちくりんのピッグスの目線ともなれば、黒ショーツに包まれた股間は当然のごとく丸見えである。
処刑時の装いについては、自分でも、かなり扇情的でフェティッシュな衣装だと思う。
特にスカート。街では絶対に着用できない短さだ。
ではなぜ処刑時には着用するのか?
それはもちろん、授香用装備という実務的意味合いもあるのだが、別の意味合いもある。
──女として、雄達ピッグスを魅了したい──
彼女の中には、そんな気持ちも確かにあった。
キリエは自らの外見的評価を自覚している。
美女揃いのエリニュス。その中でもまあ、自分で言うのもなんだが、上の上、といったところだと思う。
細身の体ボディと、それとは対照的な安産型の腰つきが描く美しい曲線クビレ。
胸は控えめだが、自分としてはこのくらいが動きやすくて良いと思っている。
長くしなやかな、とはいえ細すぎることもない、程よく肉づきのある腕。
たおやかな手。繊細な長い指。
スッと伸びた首。小ぶりな長頭型の頭部。
ポニーテールにまとめた艶めく黒髪。
冷たいグレーの瞳。
細く通った鼻筋。小ぶりで整った唇。口元の艶黒子。
そして何と言っても、腰から伸びるこの二本のおみ脚だ。
身長202cmに対し、股下は実に119cm。これにサイハイブーツのヒールを合わせると、131cm。
太腿と膝下の長さの良好なバランス。細すぎない適度な肉付き。もっちりと白い柔肌。
超越的な美脚である。
ピッグスは成人でも平均身長が90cmほどなので、並び立てば自分の太腿の半分ほどまでしかない。
足元から自分を見上げる彼らの瞳に宿る欲情、劣等感、崇拝……。
そういうものをどこか楽しんでいる自分がいる。
記憶映像の再生は続き、シーンが移り変わっていく。
ある場面に至って、キリエの眉が顰められた。
「……ごめん。これはダメだよね」
そうキリエが言ったのは、廊下でムータロを散々蹴りまくった場面だ。
彼女には、処刑官として自分に課していることがある。
それは、処刑部屋以外では受刑者に危害を加えない、ということだ。
危害を加えても規則上は実は問題ないのだが、そこは美意識の問題だ。
けじめはきっちりつけるべき。
憤怒にかられてこのようなことをするのは、処刑官としてあるべき姿ではない。
彼女はそう思っていた。
†††
「ふぅ、美味しかった……」
ずいぶん食べてお腹がいっぱいだ。余った分は明日のお弁当にしよう。
あとはお酒をちびちび舐めながら、ムータロの記憶上映会をまったり続けることにする。
直近2~3日の記憶の見たいところを見終わったので、あとは過去の断片のランダム再生となる。
いつもならここで終わりにするところだが、ムータロとは今日、レジスタンスになったきっかけの話をしたこともあり、もっと過去の記憶も見てみたかった。
「さーて、何がでるかな……」
キリエは再生用魔術具を操作し、ムータロの過去の記憶を辿り始めた。
†
最初に現れたのは砂漠の光景。
照りつける日差し。
規則的に上下する視界。歩いているようだ。
するといきなり視界がガクリと揺れ、急に地面がアップになる。
垂直に広がる砂の壁。うつ伏せで顔を横に向けて倒れたようだ。
そしてしばらくすると、ボロを纏った小柄な人影が視界の隅に現れた。
その人影は傍まで来ると膝をつき、何か喋りかけてくる。
記憶蠕虫で再生できるのは視覚だけなので、何を言っているかはわからない。
さっと、フードの下の顔が見えた。
壮年のピッグスだった。
これはきっと、”行き倒れになっていたところを組織に救われた”とムータロが話していた場面だろう。
†
続いて、レジスタンスの訓練と思しき情景だ。
視界には3人のピッグス。全員が木剣と盾を携えている。
三方向から同時に鋭い打ち込みを入れてくる彼ら。
しかし視界の主、つまりムータロは、彼らの打ち込みを木剣と盾でうまくいなすと、足払い、シールドスパイク、剣の柄による打撃で簡単に彼らに尻をつかせてしまった。
映像で見る限り、相手方の動きは悪くなかった。
それをこうもあっさり制圧するのだから、ムータロもそこそこ大したものだ。
キリエは少し感心した。
†
次は、何かの施設の光景。
幼いピッグス達が大勢いるところをみると、ピッグス収容所ファームで間違いないだろう。
収容所ファームは、生まれてすぐのピッグス達を収容し、教育と職業訓練を施し、社会を支える人材として世に送り出すことを目的とした施設だ。そこには訓練官が配備され、ピッグス達に諸々の重要な訓練を施している……はずなのだが、今、ムータロの視界を通して見ている訓練官達の姿は、そんな高尚な理念とは程遠い、胸の悪くなるものばかりであった。
机の上に酒瓶と足を投げ出して眠りこける訓練官。
下手くそな鞭さばきでピッグスの目を負傷させ、あまつさえそれを大笑いする訓練官。
腹をすかせた幼いピッグスの目の前で、これ見よがしにチキンを平らげるデブ男訓練官。
遊びで弓矢で追い立て、致命傷を負わせたピッグスに犬をけしかける訓練官……
なんてこと。
あんな野蛮人どもが自分と同じ管理局に所属しているなど、とても許せたものではない。
そしてああいった虐待が今でも横行しているのだとしたら、早急に是正が必要だ。
明日にでも、管理局の内部統制部門に調査を依頼しよう。
†
そして次に現れた記憶は……
見知らぬ家の中。天井が見える。
二十代くらいと思しき若い男女がこちらを見下ろしている。
彼らは困ったような、悲しんでいるような表情を浮かべながら、何事か話し合っている。
女が、急に顔を両手で覆って肩を震わせはじめる。
男が彼女の頭を胸に抱き、なにか言葉をかけている。
「これって……ひょっとしてムータロくんのご両親…?」
ピッグス達が生まれてすぐに収容所ファームに収容されることを考えると、やはりこの二人がムータロの両親である可能性が高い。だとすると、これは彼が赤ん坊の頃の記憶だろうか?
と、そんなことを考えていると、ふいに映像の視点が横を向いた。
すると、至近距離からグレーの瞳がまっすぐこちらを見つめていた。
「ひゃっ!」
キリエは思わずグラスを取り落としてしまう。
テーブルの下で砕けるガラス。
「もう、びっくりするじゃん……!」
グレーの瞳の主は、赤ん坊だ。
その赤ん坊は泣きもせず、笑いもせず、およそ赤ん坊らしからぬ無機質さでこちらをじっと見つめているのだ。
そこでキリエははたと気付く。
一組の若い男女と、赤ん坊が二人。
つまり、状況から察するに、ムータロは双子だった、ということか?
そしてもうひとつ、大いに気にかかることがある。
グレーの瞳の赤ん坊のことだ。
あ・の・赤・ん・坊・は・、・お・そ・ら・く・エ・リ・ニ・ュ・ス・な・の・だ・。
赤ん坊にしては長い手足。
彫りの深い顔立ち。
白い肌。
赤子らしからぬ落ち着いた様子。
ムータロの視界から得られるそれら全ての情報が、そうだと告げている。
嫌な予感めいた冷たいものがキリエの背骨をゆっくりと這い上がる。
そして自分に対し、こう問わずにはいられない。
ム・ー・タ・ロ・と・同・じ・十・八・歳・で・、・グ・レ・ー・の・瞳・を・し・た・エ・リ・ニ・ュ・ス・が・、・果・た・し・て・こ・の・世・界・に・何・人・い・る・の・だ・ろ・う・?
恐るべきことに、少なくとも自分は、そんな人物は一人しか知らないのだ。
十八歳。
「いや…まあ、そうだけどさ…」
グレーの瞳。
「うん……、グレーだけどさ…」
エリニュス。
「ええ……、エリニュスだけどさ…」
混乱した頭で必死に否定の材料を探そうとするキリエ。
「いやいや……何それ…意味わかんないんだけど…? や、意味はわかるんだけど、ありえないっていうか…」
しかしやがて、さらなる決定的な瞬間が訪れた。
記憶映像の中に、新たな人物が現れたのだ。
だいぶ若々しいが、自分がその者を見間違えるはずがない。
「嘘でしょ……」
続けてキリエは無意識に、無感情に、映像の中のその者の名を呼んだのだった。
「おじいちゃん」
第四章 Act.2 キリエ
王都の初夏の深夜ミッドナイト。
アップタウンから管理局へと続くストリート。
人通りはない。時折遠くから響く野犬の遠吠え。
闇を心細く照らす街灯。それに群がる羽虫。
湿り気を含んだ生暖かい空気。
キリエは走っていた。
長いストライドで、懸命に。
服装は着の身着のまま、だいぶ地味目な普段着だ。
白のブラウス。インディゴ染色された綿ズボン。
ぺったんこの革製婦人靴パンプス。
いかにも秀才ガリ勉女子といった風の丸眼鏡ロイド。
毎日、ここを通勤している。
歩きで30分ほどの道だ。
管理局の公用馬車ならもっと速いが、キリエはあえて徒歩で通っていた。
道端の花、街路樹、季節の移ろい、太陽、風、人々の活気。
そういうものを五感で感じながら歩いていると、いつもあっという間に職場に着いてしまうのだ。
そう、いつもなら。
だが今は。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ………」
歩き慣れた道が、この世の善きものたちで満ちていたはずのこの道が、こんなにも苦しく遠いとは。
親族殺しは、この世界の宗教でもっとも固く戒められている禁忌の一つだった。
聖典が必修となっているこの国の教育において、人々は皆、幼い頃からそういった宗教的感性を嫌というほど刷り込まれて育つ。それはエリニュスとて例外ではない。特にキリエは、祖父の古風な価値観で躾けられたせいもあるだろうか、かなり信心深い性格に育っていた。
そんな彼女である。
事実を知って平静でいられるはずもなく、着の身着のまま部屋を飛び出すと、ドアも開け放ったまま、夜更けのストリートを走り出したのだった。
ゆえにキリエは走っていた。
長いストライドで、懸命に。
走るという行為には、どこか瞑想メディテーションめいたところがある。
胸を乱す思いとともに、心の中のスクリーンには関連性のない想念も次々と浮かんで消えて行く。
去来するのは、なぜか自分の過去むかしのことだった。
† † †
一人で過ごすことの多い子供だった。
家にはお手伝いさんはいたが、家族は祖父だけだった。
両親の顔は知らない。いや、今となっては”知らなかった”というべきか。
祖父からは、両親は死んだとだけ聞かされていた。
それが真実かどうかは分からない。
キリエ自身、特に調べようとも思わなかった。
一人の時間は本を、特に聖典を多く読んで過ごした。
その中で生き生きと語られる七神の物語に、少女の心を躍らせた。
ある時、道でひどく転び、膝を強く擦りむいた。
やせっぽちの幼い少女の皮膚は薄く、傷からは赤い血液が流れ、その奥には白いものが見えていた。
灼熱の痛み。涙が溢れて止まらない。
間が悪く、周りには助けてくれる大人は誰もいない。
信心深い少女は、神に縋った。
七神のうち、治癒魔術を得意とする彼女に。
”フローレンス、すごく痛いの! 私にあなたの治癒魔術を貸して!”
すると、膝を覆っていた両手に不思議な光が宿った。
赤い光が傷に流れ込み、みるみる塞がっていく。
治癒魔術が発現したのだ。
あの時の嬉しさは、今でも強く覚えている。
フローレンスが自分を選んだのだと思った。
あなたはこの力で、傷ついた弱きものたちを救いなさい。
彼女がそう言っているように思えた。
†
やや過ぎて、夏。
ある出来事が、自分の道を決定づけた。
きっかけは好奇心だった。
自分の治癒魔術がどの程度のものか、もっと良く知りたかった。
キリエは近所の雑木林の中を、傷ついた生き物を探して歩いた。
だが、なんでもそうだが、探している時ほど見つからないものなのだ。
羽虫、甲虫、爬虫、小鳥、小動物。
林の中では、傷・つ・い・て・い・る・も・の・は・、・す・べ・て・死・ん・で・い・た・。
死んでいるものに治癒魔術をかけても、何も起こらなかった。
”ちょうどよく傷ついていて、まだ生きているもの”が必要だった。
だが、探せど探せど、一向に見つからなかった。
途方に暮れかけた時、ひとつのアイディアを思いついた。
それはなんだか悪いことのような気もした。
だがすぐに思い直した。
大丈夫。自分が治してあげればいいだけだ。
昼下がりの葉陰で休む1匹の青蛙を見つけた。
ぷっくりと可愛らしい小さな蛙子だった。
捕まえた。
ぴょんぴょん跳ねて逃れようとするその後ろ足を、親指と人差し指で挟んだ。
少し逡巡したが、やがて思い切って力を込めた。
パキム、とあっけない音がして、蛙の後ろ足がだらりと垂れた。
手に、生き物の小さな震えが伝わってきた。
見ると、体を小刻みにぷるぷる震わせながら、口はまるで何かを訴えるようにパクパクしている。
それは、可・愛・く・て・、・可・哀・想・な・姿・だ・っ・た・。
その時、お腹の下のほうで何かが、じゅん、となった。
いつもおしっこが出るあたりだ。
今までに覚えたことのない感覚だった。
なんだろう。よくわからない。でも、何だかへんなかんじ。
もっとよくこの感覚を確かめたい。
よし、もう一回、もう片方の足で試してみよう…
パキム。
両後ろ足がだらりと力なく垂れた。
手に感じる震えが、先ほどよりも小さくなった。
目をやると、今度は口が開きっぱなしになって、その中の舌がピクピク痙攣しているのだった。
ああ、痛・が・っ・て・る・ん・だ・。
可哀想。でも、なんだか。
──可愛い──
じゅん
まただ。
やっぱり、この蛙くんの、この可愛くて可哀想な姿を見ていると、お腹の下の方が湿っぽくなるのだ。
何だかへん。へんなきもち。きもち?
うん、なんか、きもちいいかも。
前足が2本、まだ残っていた。
何もない空中を必死で掴もうとするように懸命に動くそれを、親指と人差し指でそっと挟んだ。
小さな蛙は手の中で激しく暴れ出した。
これから身に降りかかる、いともたやすく行われるえげつない行為を予期したかのように。
†
羽虫、甲虫、爬虫、小鳥、小動物。
キリエは、小さな生き物たちを集め始めた。
折っては治癒なおし、捥いでは治癒なおし、潰しては治癒なおした。
そして、痛苦に悶える彼らの姿を見て、幼い蕾を湿らせた。
すごく悪いことをしているような気もしていた。
不安だった。こんなことをしていいのだろうか。
信心深い少女は、聖典に答えを求めた。
フローレンスに関する、ある一節が目に止まった。
曰く、
”彼女フローレンスは、その卓越した治癒魔術によって多くの人々を治癒した”
そしてその後は、
──医療技術の研究にも尽力したという──
医療技術。研究。
それは、治癒術使いのキリエサディストにとって、格好のエクスキューズとなった。
そうだ、これは”医療技術の研究”なのだ。
ありがとう、フローレンス。
また貴女に導かれたわ。
やっぱりわたし、あなたに選・ば・れ・た・のね!
自らの行いに宗教的な許しをこじつけ、迷いの消えたキリエは、すぐに準備に取り掛かった。
医療なのだから、そのための道具が必要だ。
街や文献で目にしたものを参考にし、日用品を改造して色々と自作した。
手術刀メス。
針ニードル。
鉗子。
拘束帯。
処置台。
服装にもこだわった。
医療の神の象徴たる赤い十字の意匠を、衣服に盛り込んだ。
ほどなく準備は整った。いざ、研究開始だ。
とある静かな午後。
祖父のいない時間帯。
自分の部屋。
赤い十字ナースの装備に身を包み、手術刀メスを構える自分。
決して逃れられない手術台に捕らえられた、可愛い生き物患者たち。
──さあ、はじめるよ──
じゅん
”あ、なんかきた”
そう思うと同時に、下腹部から背骨を通って脳髄に、閃光のような快感が迫り上がった。
灰色の瞳が赤く染まって爛々と輝いた。
ふと、鼻から上唇に、何か液体が流れる感覚。
舌先で舐め取る。鉄の味。
興奮のあまり出た、鼻血だった。
†
甘美な嗜虐の日々。
しかし、唐突にその終わりは訪れた。
ベッド下に隠していた”患者達”が、祖父に見つかったのだ。
普段は温厚な祖父だったが、この時はキリエに対し強く怒りを見せた。
あれほど叱られたのは、後にも先にもあの時きりだ。
祖父はキリエの”手術道具”を没収すると、そういった行為を固く禁じたのであった。
† † †
将来就きたい職業は早くから決まっていた。
も・し・そ・れ・に・な・れ・な・け・れ・ば・、・こ・の・社・会・で・自・分・は・き・っ・と・、・ま・っ・と・う・に・は・生・き・て・い・け・な・い・だ・ろ・う・。
子供ながらに、そんな自覚があった。
危機感と、そこから生まれた目的意識。それに生来の地頭の良さが相まって、学業では優秀な成績を修め、飛び級に飛び級を重ねた。
十六歳で王都の医療系最高学府セント・フローレンスを卒業し、管理局に就職した。
入局後のキャリア面談では、処刑官を希望した。
人事担当者は総合職を薦めたが、キリエは頑として譲らなかった。
当然だった。
自・分・は・、・処・刑・官・に・な・る・た・め・に・、・管・理・局・に・就・職・し・た・の・だ・か・ら・。
はしたない話だが、正直、我慢の限界だったのだ。
幼き夏の日に芽生えた嗜虐的サディスティックな熱情は、この頃にはもう、破裂しそうなほどに巨きく育っていた。
度し難きもの、それは、まったくもって自分自身のことであった。
†
仕事は概ね順調だった。
もともとけじめをきっちりつけるタチなぶん、処刑時には心のまま、どこまでも残酷になれた。
医療技術と治癒魔術を駆使したオンリーワンの苛烈な処刑スタイルで瞬く間に頭角を現すと、3ヶ月後には主任に昇格して専用のフロアを与えられた。
天職とも言える仕事処刑。十分すぎる俸給。
誰もが羨む美しい容姿エリニュス 。不老長寿エリニュス 。
約束された素晴らしい未来。順風満帆の人生。
それでも、やはり人の子である。
迷いも無かったわけではない。
†
ある時、年端もいかない幼いピッグスレジスタンスを処刑担当することになった。
7歳。テロ用の魔術物資の輸送に関わった、ということだった。
さすがのキリエもその時ばかりは、熱情よりも母性が優った。
”処置”は一切行わなかった。
この子がせめて最後の時間を子供らしく過ごせるよう、手を尽くしてやりたいと思った。
獄司に殴られた傷を癒してやり、体を洗ってやった。
料理を作ってやり、歯を磨いてやった。
話を聞いてやり、聖典を読んで聞かせてやった。
うなされて眠る小さな体を、朝まで抱きしめてやった。
怯えていた少年の心は次第にほぐれ、二人はまるで本当の母と子であるかのように、七日間を過ごした。
そして最終日。
特別に取り寄せた安楽死用の麻酔剤だった。
”暗いダーク”
と最後の言葉を残し、幼いピッグスはキリエの腕の中で息を引き取った。
処刑後しばらく、疑問に苛まれる日々が続いた。
なぜ自分は”こう”なのか。
自分がしているのは、本当に許されるべき行為なのか。
見せしめで彼らレジスタンスを残酷に処刑することが、本当にテロ抑止たり得るのか。
そもそもなぜピッグスは差別されねばならないのか。
本当はおかしいのは、この社会ではないのか……?
考え始めると、疑問は尽きなかった。
だが、だからと言って何をするというわけでもなかった。
エリニュスとはいえ、言ってしまえばそれは、人間のちょっと優れた亜種というだけの存在だ。
神でもなければ悪魔でもない。自分など1匹の哺乳類に過ぎない。
生家はそこそこ余裕があったアッパーミドルが、とはいえ貴族でもなければ豪商でもない。
王都の小市民として、一介の労働者サラリーとして、まずは目の前の日常をこなさねばならなかった。
理性的に無理やり整理をつけて、疑問は心の深くへしまい込んだ。
そうして日々を過ごすうち、あの少年のことも、彼と過ごした七日間のことも、次第に思い出さなくなっていった。
キリエはますます仕事処刑に打ち込んだ。熱情の赴くまま、さらに苛烈に、より残酷に、悪魔のような丹念さで、じっくりと愛を込め。
生まれてきた以上、自身の境遇シチュエーションを良くしたいと願うのは、誰だろうと自然なことだ。
自分の場合、それは、処刑官になることだった。
もし処刑官になれていなければ、この社会で自分はきっと、まっとうには生きていなかっただろうから。
全てが完璧に満たされることはあり得ない。
そもそも自分は十分過ぎるほど恵まれているではないか。
だから、疑問はあっても、この道処刑官で良かったと思っていたのだ。
そう、今日までは。
† † †
「はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、はぁっ…、はぁっ………」
管理局第七監獄職場にたどり着いたキリエは、息を切らしながら夜間ゲートに顔を出した。
「主任処刑官、こんな時間に、そんなに慌ててどうしたんです?」
「すみません、ちょっと受刑者の体調が心配で……入れてもらえますか?」
ずれた丸眼鏡ロイドを人差し指で直しながら、キリエはスマートに事実のみを伝える。
「相変わらずご熱心なことだ。どうぞ」
「ありがとう」
鉄格子が開き、キリエは守衛に一礼しながら中に入った。
第四章 Act.3 救護
管理局第七監獄地下七階。
処刑官キリエ専用フロア。
そのフロア内の一室、”処置室”の中央で、奇妙な肉塊が小刻みに震え続けている。
否。よく見るとそれは肉塊ではない。
それは、苛烈な身体改造を施された、ピッグスの青年であった。
根本からの四肢切断。
超肥満化した体。ケロイド状に残る多数の鞭痕。
全抜歯された口。
肩肉に埋め込まれて縫合された首。
男根状に成型ペニサイゼーションされた無毛の頭部。
細ワイヤーに絞り上げられてボンレスハム状に変形した顔面。
そして、正中線から左右に剥かれた腹の皮。それを残酷に引っ張り広げる開創器。
両乳首に打ち込まれた点滴針から流し込まれる、最強度の痛覚鋭敏剤。
そんな状態で処置台に拘束された青年=ムータロは、超肥満化でむくんだ目に水たまりのように涙をため、全身をプルプル痙攣させながら懸命に痛苦に耐えていた。
ムータロは今日、頭部男根化処置ペニサイゼーションされた自らの姿を見せつけられ、そのあまりのおぞましさにショックを受け、処置後もずっと泣き喚いてしまった。それがキリエ処刑官の機嫌を損ね、今夜、無音と蛍光が満たすこの処置室で、苦痛だけを供に一夜を過ごすことを命ぜられたのだ。
そういう、罰であった。
彼はこの苦痛に満ちた状態で、キリエがやってくる朝まで耐え続けなければならないはずだった。
しかし、
プシュー、ゴゴゴゴゴ………
一体如何なることだろうか。
遠すぎる朝を待たずに、重い音を立てて処置室の扉が開いたのである。
†
「ムータロくん!」
入室したキリエは開口一番、青年の名を呼んだ。処刑官としてではなく、肉親を心配するひとりの人間としての声で。
しかし声を聞いたムータロは、
「あああーーーーーっっっ!!! おゆうひぐあはいぃーーーーーっっっ!!! おゆるひくあはいぃぃぃぃ!!! おゆうひぐあはいぃーーーーっっっ!!!」
と、あらん限りの声量で必死に許しを乞う。
彼の思考回路には既に、
”処置室” & ”キリエの声” = ”痛いことが起きる”
という論理式が刻み込まれてしまっていたのだ。
「ムータロくん……」
キリエは救護のために傍まで歩み寄ると、今度は穏やかな声音でそっと声をかける。
だがやはりムータロは、
「んっ、んぁぁーーーーっっっ!!! だえがぁーーーーっっっ、あっ、あぁぁーーーーっっ!!!」
頭上から見下ろす処刑官キリエの姿を視界に認めると、ますます慟哭を増大させてしまう。
その様子を見たキリエは、ムータロの精神が既に危険水域に達してしまっていることを悟る。このままでは、たとえ体を治癒なおしたとしても、精神的に廃人になってしまう恐れがある。救護措置を施すにも、一旦鎮静チルアウトさせてからの方がよさそうだった。
……ムータロくん、落ち着いて……大丈夫だから……
……もう痛いことはしないから……ね? ほら、怖くない……
……すぐに処置室から出してあげるからね……
……そしたら、また美味しいご飯を作ってあげる……
しかしそんなキリエの優しい言葉もむなしく、
「おああーーーーっっっ!!! だふげでぐあはいぃぃぃーーーーっっっ、だっ、だえがぁーーーーーっっっ!!!」
膨張した顔を真っ赤にしてムータロはますます泣き叫ぶ!
(く…これじゃぁ……)
らちがあきそうにない。
もはや言葉などいくら尽くしたとしても、この3日間で彼の心深くに刻み込んでしまった恐怖を払拭することはできないだろう。今の彼にとっては、”処置室のキリエ”=”苦痛を与えるものペイン・アダー”でしかないのだ。”聖なる1/fホーリーフラクチュエーション”で鎮静させるという手もあったが、さすがに最強度鋭敏剤の効いた今の状態では効果が薄いだろうし、後ほど使うであろう治癒魔術のためにも魔力は温存したい。
数瞬の、言語に依らぬ思考でそう結論したキリエは、叫び続けるムータロに構わず行動に出た。
まずは乳首の鋭敏剤点滴を外す。
恐怖を感じる時間も無いほど、手早く一瞬で。
「うぅぅぅぅっっっ!!!」
抜針時の鋭痛にムータロが呻きを漏らす。
その痛苦の声音がキリエの心を波立たせる。
しかし彼女の手は止まらない。ここはスピード勝負だ。
同じ痛みの総量でも、かかる時間が長いほど体感苦痛は増す。
これまでの処刑しごとの中で、キリエは経験的にそれを知っていた。
続けて細ワイヤーを外し、顔面を解放する。
「ぶっ、はぁぁぁぁっっっ!!!」
ワイヤーが外れた反動で、溜まったよだれや涙や鼻水や汗が飛び散り、ブラウスの袖を汚した。
キリエはまったく気にすることなく、ガーゼを手に取り、ムータロの顔を丁寧に拭いとった。
次は呼吸だ。
過呼吸気味になっているので、これは治めておいた方がいい。
その方法について、キリエに迷いはなかった。はらりと垂れ下がる美しい黒髪を耳にかき上げると、泡を吐き散らすムータロの唇を、躊躇なく自らの美しい唇で上から覆った。
んすぅーーーーーっっっ…… ぱぁーーーーーーっっっ……
んすぅーーーーーっっっ…… ぱぁーーーーーーっっっ……
んすぅーーーーーっっっ…… ぱぁーーーーーーっっっ……
んすぅーーーーーっっっ…… ぱぁーーーーーーっっっ……
マウスツーマウスの人工呼吸。
唇を重ねながら、キリエは舌でムータロの歯茎を探る。
全抜歯された口内の、その柔らかくも哀れな肉感。
それはまったく、人工呼吸には不要な動作であったが、なぜかキリエはそうしてしまった。
そしてそのまま数分間。
ムータロの過呼吸が十分に落ち着いたのを感じ取ると、キリエはゆっくりと唇を離していく。
体液同士が名残惜しむように、唇と唇の間に細く透明な糸を引いた。
キリエは上気し、その頬は少し朱に染まっている。
「ぅぁぁぁぁぁ…………」
ムータロも落ち着いたようだった。
というか、もはや蕩けた表情で淫声を漏らしている有様だ。
(……わたし、なにやってんのよ…… 早く救護しなきゃ)
瞑目して一呼吸し、キリエは気を取り直す。
問題がこの後に控えていた。
ムータロのお腹の皮膚はいま、正中線からぱっくり左右に10センチほど剥かれた状態で、開創器で引っ張り固定されている。これを縫合して、治癒魔術で癒着させてあげなければならないのだ。
処置室は衛生的に保たれており、腹部の切開口の止血も問題ない。それでもこのままでは、低いながらも感染症のリスクがあった。というかそれ以前に、筋肉と皮下組織むき出しの痛々しい状態をそのままにしておくのはあまりに酷だ。しかし、いかにキリエとはいえ、さすがにこれは手早く一瞬で、という訳にはいかなかった。縫合して癒着させるには、止血済みの切開口をもう一度傷つけなければならない。そうしないと治癒魔術を使っても組織同士がくっつかないのだ。もちろん、何・も・な・し・でそんな処置をするわけにはいかない。
(確か残ってたはず……)
キリエは処置室の壁際で、薬品棚を漁り始める。
(あった……!)
もう1年以上前に、ある受刑者のために一度だけ使った麻酔剤だ。
その時は安楽死用に用いたが、量を調整すれば普通の麻酔剤として使える。
キリエは薬液を注射器シュリンジに装填すると、それを携えてムータロの元へ戻る。
元気付けるつもりで、一言声をかける。
「ちょっとだけチクっとするからね……」
と、言ってしまってから後悔する。
こんな時だというのに、処刑時の癖が抜けきらず、ついそのような逆効果の言葉をかけてしまった。
案の定、その言葉を聞いて注射器シュリンジを目にしたムータロは、
「あ、あ、あっ、びゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーっっっ!!!」
魂のひび割れから血が吹き出したような叫びをあげ、再び狂乱の様相を呈してしまう!
処刑時、キリエは受刑者に対してよくそのような言葉をかけるが、実はこれは”処置宣告インフォームド・コンセント”という名の、彼女の処刑技術の一つなのだ。処置の内容を告げることで受刑者の想像力を刺激し、より強い恐怖と痛みを与える、というものである。
泣き叫ぶムータロに構わず、キリエは彼のお腹の数カ所に麻酔を注射する。
プスリ。キュゥゥゥゥゥゥ……
「ンアッ、ァァーーーーーッッッ!!!」
プスリ。キュゥゥゥゥゥゥ……
「ムグゥゥーーーーーーッッッ!!!」
プスリ。キュゥゥゥゥゥゥ……
「イィィーーーーーーーッッッ!!!」
さらに、視覚的恐怖を減ずるため、綿布タオルで目を覆ってやる。
「少し触られてる感じがするけど、痛くはないからね……」
ムータロに優しくそう告げると、キリエは、縫合処置を開始した。
†
縫合処置開始から30分後。
「ふぅっ……とりあえず…」
ムータロのお腹を縫合し、そこを治癒魔術で接合し終えたキリエは、額の汗をブラウスの袖で拭って一息をついた。ひとまず、これで応急的対処は済んだ。
キリエは改めてムータロの体を観察する。
超肥満化、首の埋没、頭部男根化は、時間はかかりそうだがなんとか修復できそうだ。
しかし、耳の切除、抜歯、そして四肢切断アンピュテーションはもう………
「治癒なおせない……」
処置台で安らかな寝息を立てるムータロの頬に、キリエの後悔の涙が数滴落ちた。
朝まで一緒にいてやりたかったが、部屋アパートのドアを開けっ放しにしてきたことを思い出した。気を張りすぎたためか、少しフラフラもする。
仕方ない、一旦戻って休むことにしよう。
キリエは、ムータロが眠りやすいように照明を調整すると、後ろ髪を引かれながらも、処置室を後にした。
第四章 Act.4 獄司
「おやおや、誰かと思えば、我らが第七監獄の主任処刑官様プリンセスじゃねーか。どうしたんスか? こんな夜中に」
管理局地下一階の廊下。
ムータロ救護を終えて帰途につかんとするキリエに野太い声をかけてきたのは、獄司の男である。
「受刑者の体調が心配だったんです。処置は終わりましたから、もう帰ります」
キリエは素っ気なく事務的に返事をする。
しかし、獄司はしつこく会話を続けようとした。
「受刑者って、ああ、あのムータロとかいう? あいつが心配? てかアンタさ、どうせ殺すんだろ?」
神経を逆なでするような声と台詞。
もともとキリエは、この獄司のことが好きではなかった。
普通の人間にしてはかなりの長身。加えてガタイも良いので余計にむさくるしい。
言葉遣いもあまり賢そうではない。というか、奥ゆかしくないのだ。
歳はまだ案外若そうだが、それにしては可愛さのかけらもない。
流行りなのだろうか、やけに鋭角的に整えられた濃ゆい顎髭と、側頭部が刈り込まれ、ボリューミーな頭頂部に整髪剤グリスがテカテカ光る濃いめのブルネットヘアー。頭と同じ太さの首と、はだけた胸元から覗くモジャモジャの体毛。筋肉もりもりのふとましい二の腕。尻と太ももがピチピチのタイトなズボン。
いかにもメンズフェロモン全開と言った感じで、世の中的には”マッチョな色男”といった評価になるのだろうが、キリエに言わせれば暑苦しくてキモいだけである。
そしてさらに気にくわないのは、こいつの態度だ。
大抵の男は、エリニュスである自分に対しては多少なりとも怖気付いたところがあって、それが可愛かったりするものだが、こいつに関してはまったくそんな気配がない。むしろ逆に、ナチュラルに上から目線で、尊大で、ずけずけと思ったことを言ってくる。
第七監獄には獄司が何人かいるが、不幸なことに、キリエはこいつと絡むことが一番多かった。
レジスタンスの中でも特に武闘派や幹部──つまりキリエに処刑担当されるような受刑者──を、この獄司は担当しているからだ。
まあこのガタイの良さを見れば、さもありなん、といった感じではあるのだが。
ここで重要なのは、つまりムータロの担当獄司はこの男である、ということだ。
「処刑官には処刑官のすべきことがあります。あなたには分からなくても結構。失礼します」
疲れもあり、キリエはツンと吐き捨てると、獄司の横を通り過ぎる。
すると後ろから、全く予期せぬこんな言葉が投げかけられた。
「そういや、アンタの祖父じいさんが、アイツに会いにきてたな」
祖父が?
ドキッとしてフリーズするキリエ。
獄司は続ける。
「アイツをアンタに引き渡す前だ。なぜかは知らんが、アンタの祖父じいさんは、アイツを助けたがってたぜ。な・ぜ・か・は・知・ら・ん・が・な・」
なぜかは知らんが、を強調することで、言外に訝しみを匂わせている。
無視して歩きだそうかとも思ったが、さすがに自分の祖父が来ていたとあっては、さっさと立ち去るのも不自然だ。後頭部に刺さる視線を感じながら、キリエは振り返らずに獄司の話を黙って聞き続ける。
「他の獄司にも聞いてみたが、どうやら最近もたまに来てたらしいな。それも、決まってまだ若い十代後半ぐらいのピッグスの時らしい。最近より昔はどうだったのかは、知ってるやつがいなかったが」
キリエの背中に冷や汗が流れる。
唾を飲み込んで、首だけで少し振り返ると、率直にこう問い返した。
「何が言いたいんですか?」
ああ、つまりだ。
と前置いて、獄司はこう言った。
「アンタは今まで何人処刑してきた? 中には体調が悪くなるやつだっていたはずだろう。だが、俺の知る限り、アンタがこんな夜中に駆けつけてきたことはなかったと思うんだがな」
緊張した空気が、その場に張り詰めた。
数秒、無言が空間を満たす。
やがて獄司がキリエをゆっくり回り込み、二人は正面から向かい合った。
身長はほとんど変わらない。
ほぼ同じ高さで目と目が合った。
獄司は爬虫類のような、もっと言えば、”体育会系ジョックの蛇”、とでも形容したくなるような目をしていた。そしてその目でキリエの目を見据えると、端的にこう問うた。
「アンタ、本・当・は・今・夜・何・し・に・き・た・ん・だ・?」
まったく遠慮のない、クリティカルな質問だった。
それは、”何かがある”ということは確信していて、でもそれが何かは分からない、という時の口ぶりだった。
「わ、私は受刑者の体調が心配で」
キリエは思わず目を逸らし、噛みながら早口で答える。
「なぜ今日だけそんなに心配だったんだ?」
獄司は間髪置かずに畳み掛ける。
キリエは焦った。
まずい。これはまずい。
というか、なぜこいつはこんなに疑り深く突いてくるのだ?
仕事の絡みの中で、こいつに友好的に接していたと言えば嘘になるが、それでも決定的に礼儀を欠くようなこともなかったはずだ。
今やこの獄司の頭の中には、様々な推理が浮かんでいるのだろう。
そしておそらく、その中には的を得たものもあるはずなのだ。
「そ、それは、今回の受刑者には、特に厳しくやりすぎてしまったからです」
ボードゲーム盤上を逃げ回る王キングめいて、キリエの論理はなんとか安全地帯に撤退する。
キリエはムータロ救出の手法については、隙を見つけてなんとか管理局から連れ出す、という方向性をざっくり考えていた。しかし、獄司に怪しまれて警備を強化などされてしまったら、それだけ難しくなってしまう。
「そうか。まあいい。とりあえずこの件は、獄司連中と獄長ボスに共有シェアさせてもらうぜ」
論理的膠着状態に持ち込んだキリエだったが、そこに獄司は容赦なく、別角度からの攻撃を加えてきた。
(…………!)
「どうした? そんな鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔して。いやなに、別におかしなことは言わねえよ。俺はただ、なにやら様子のおかしい主任処刑官様が心配で、それを獄長ボスやみんなにシェアする。そして”ちょっといつもより色・々・と・気・を・配・っ・て・あ・げ・た・ほ・う・が・いいかもしれないっすねぇ”、と、こう進言するわけだ。獄長も獄司連中もアンタが大のお気に入りだからな、心配して地下七階に様子を見に行けだのと、いろいろ言いだすかも知れねえよなぁ」
これは痛恨の一撃だった。
同時にキリエは得心した。
こいつの狙いは、話を大きくしてこちらを動きづらくすることだ。
だがやはり分からないのは、そんなことをするこいつの動機だった。
「ね、ねえ、私が何かあなたを傷つけてしまっていたのなら、謝るけど」
キリエは言葉を選び、慎重に会話を運ぶ。
「ん? ああ、そういうことか」
意を得たように獄司はそう言うと、粘ついた所作でキリエの背後に回り込んだ。
そして意地悪な笑みを浮かべ、キリエの耳元で、どこか勝ち誇るようにこう囁いたのだった。
「アンタはみんなの人気者だ。だがアンタは俺のことは嫌いだろう。そういうの、わかるんだぜ? だから俺も、アンタが嫌いだ。つまりそういうことさ」
第四章 Act.5 老人と孫、孫と老人
処刑開始から四日目の今日、キリエはムータロに朝食を取らせて寝かしつけると、有給を申請し職場を後にした。そしてその足で王都郊外の実家に向かう。賃貸馬車タクシーと歩きで45分ほど。森に面した閑散とした住宅地の中の一軒、三方を生垣で囲った横板張りの瀟洒な木造住宅。小さな庭を横切り、胡桃材ウォルナットのドアをノックすると、ガチャリと鍵が開き、目当ての人物はすぐに現れた。
「おお、久しぶりじゃのう」
古の魔法使いじみた白髪と白髭。長年の風雨にさらされ続けた枯れ木のような痩身に、地色アースカラーのゆったりした作務衣モンク・ウェア。やや白みを帯びてしまった瞳は、しかし未だその柔和さの奥に鋭さと知性を湛えてキリエを見上げている。
法曹一筋で長年勤め上げ、最後には検察長官にまで上り詰めた後、退官。その後は多くのオファーを固辞し、通常の再雇用として今は主に若手検事たちの指導にあたっているその小柄な老人。キリエの祖父である。
「久しぶりに連絡が来たかと思えば、急に会いたいとはの。何かあったか?」
「うん……ちょっと話があって」
玄関をくぐりながらそう言った孫娘の目の下には、黒ずんだ隈がはっきりと見て取れた。冷たいグレーの瞳は、そこはかとなく、追い詰められた肉食魔獣のような、憔悴した危うい光を帯びているようにも見えた。なんとなく予期していたが、やはり、どうやら楽しい話ではなさそうだった。
「仕・事・絡みか?」
心なしか硬い口調になって祖父は問うた。
彼はキリエが処刑官として働いていることを良く思っていない。
彼女が持つ特殊な気質のことは承知している。
管理局の監獄の薄暗い地下で、自分の孫娘が何をしているのか。
そんな仕・事・の話など聞きたくも無い、というのが、彼の本心だった。
「……それも関係あるけど」
廊下を歩き、二人は応接間に入る。
遮音魔術シャット・アップが効いた窓のないこの部屋は、沈鬱で灰色の、まったりと重い静けさで満ちている。
「とにかくまあ、座りなさい」
祖父は孫娘にソファを勧めた。
キリエは背もたれには体を預けず、組んだ手を閉じた膝に乗せ、そこに視線を落とし、やや背を丸めた姿勢でソファに座った。
祖父は彼女のその姿に懐かしさを感じた。そうだった、キリエこの子は小さな子供の頃、何か良くないことをしてお説教をされるときは、よくこんな姿勢をしていたものだった。
(ま、文字通り大きくはなったが、まだまだ子供みたいなもんじゃからの……)
二人はソファに座って、黒檀エボニーの小卓子テーブルを挟んで向かい合った。
キリエは目を伏せたまま、しばし沈黙。
祖父は何も言わず、彼女が話し出すのを待った。
やがて孫娘は、目を伏せたまま弱々しく切り出した。
「……どうして教えてくれなかったの?」
何を? と、祖父が問うより早く、キリエは続けた。
「わたし、双子のピッグスがいるんでしょ」
† † †
腹が疼く。
喉が乾く。
肺が熱い。
頭が重い。
首が痒い。
骨が痛い。
息が辛い。
汗が臭い。
目が回る。
耳が鳴る。
鼻が詰る。
おしっこしたい。
うんこしたい。
嘔吐したい。
動きたい。
でも。
腕が無い。
脚も無い。
何も無い。
動けない。
そう、おれは。
動けない、何もできない、脂肪塊しぼうかい。
妙に韻を踏んだ言葉たちが、熱で茹で上がった脳を駆け巡った。
不快。あらゆる身体的不快さが、いま彼を襲っている。
腹の中心に縦に走る縫合痕。その裏側の部位が、化膿していた。
雑菌による感染症であった。
「うぅぅ……ぅぅぅぅぅ…………」
漏れる呻き。
朦朧とする意識の中、ふと、何者かの気配を感じた。
根元から四肢切断アンピュテーションされた今はなき右手側のベッド脇に、誰かがいる。
埋没縫合タートルネック処置された首を無理やり回し、なんとか顔をそちらに向けた。
(あ、あ、あああ………!)
そこにいたのは、いつか夢に見た見知らぬ若い男女だった。
彼らは困ったような、悲しんでいるような表情を浮かべて、こちらを見下ろしている。
女が手で顔を覆って肩を震わせ始めた。
男が彼女の頭を胸に抱き、何事か慰めるように声をかけている。
彼らのその姿に、ひどく懐かしい感覚があった。
同時に、ひどく寂しい確信があった。
彼・ら・は・、・自・分・を・捨・て・て・ど・こ・か・へ・去・っ・て・し・ま・う・のだ。
ほどなくして、彼らは背を向けた。
確信の通りに。あたかも予定調和のごとく。
(……嫌だ、もう置いていかないで……おれも一緒に、そっちにいくから……)
管理局地下七階=キリエ専用フロア。
その中の一室、受刑者拘留室ゲストルーム。
高さ1.5メートルに設定された介助機構付き寝台ベッドの上。
夢と現の間あわい、病熱の苦悶の中で、ムータロは力を振り絞って、少しずつ、緩慢な芋虫のように、ベッド端へ向かって背中で這いずり始めた。
† † †
「なんと……では、あの青年が……」
キリエの説明を聞いた祖父が、抑制された驚きの声を上げた。
「やっぱりそうなんだね……。おじいちゃんはどこまで知ってたの? 可能性はあるとは思ってた、って感じなの?」
詰問する孫娘に、祖父は説明した。
キリエに双子の兄ピッグスがいることは事実であること。
だがムータロが当人だということはもちろん知らなかったこと。
公開されている管理局の日報を読み、ちょうど年齢が合致したピッグスが収容されたことを目にする度に、会いに赴いて司法取引を持ちかけていたこと。
「そっか……。だけどそもそも、最初に聞いたけど、どうして教えてくれなかったの?」
すると祖父は、苦虫を噛み潰したような顔になってこう答えた。
「……本当は、お前が分別つく年頃になったら教えようと思っておった。じゃが、あ・の・ピ・ッ・グ・ス・た・ち・にお前は何をした? あれを見て、わしは心底悲しかった。お前の兄の件はもう、わしの胸だけにしまっておこう、と思ったよ。怖かったんじゃ。もし教えたら、いつかお前がお前の兄を探し出して、嬉々として同じように残酷な行為を行うのではないかと」
“あのピッグスたち”とは、キリエが数年前、医学生だった頃に、祖父のコネで管理局から調達してもらった人体実験用のピッグスたちのことだった。確かに彼らに対しては、いま処刑官としておこなっていることほどではないにせよ、それなりに苛烈な処置を施した。
だが、それは彼らが赤の他人だったから出来たことだ。
いくらなんでも自分の兄に対し、
「そんなことするわけないじゃん………!」
キリエは祖父に対し怒りが湧き上がるのを感じた。
祖父が自分をそういう人間だと思っていた、ということが悔しかった。
しかし今はそのことをぶつけている場合ではない。
胸に溜まった息を吐ききり、気を取り直すと、ムータロ救出の可能性を探求することに専念する。
「その司法取引って、今からは無理なの?」
「無理じゃ。手続き上、それはもうできん」
「だったらまた、あのピッグスたちみたいにはできない?」
「……いや、残念じゃがそれも難しい。まず、当時の管理局は色々と緩かった。それにあの頃の管理局局長はわしの法曹学生時代の同期で、友人じゃった。だが奴は……すでにこの世にはおらん。今の局長はずいぶん若いようじゃし、もはやわしのコネクションなど無いに等しい」
キリエがもっとも期待していた展開シナリオは、早くも崩れた。
いろいろと顔の効く祖父ならば、と思っていたが、そう簡単ではないらしい。
「お前としては、どうするつもりなんじゃ?」
祖父はキリエに水を向ける。
キリエは、自分がなんとかこっそりとムータロを連れ出せないか検討しているが、そこにひとつ、大きな懸念がある旨を話した。
「なるほど、獄司に怪しまれている、とな……」
「うん。なんでかわたし、そいつに嫌われてるみたいで」
「どんなやつじゃ?」
キリエが獄司の特徴を伝えると、祖父はすぐ合点したようだった。
「ああ、あの獄司の彼じゃな。会ったよ。ずいぶん体格のいい」
「そうそう、そいつ。すごく嫌な奴なの。ほんと、あいつさえいなくなれば……」
と、キリエは毒づき始める。
すると祖父はたしなめるように、キリエに幼い頃から繰り返し教えてきたことを言った。
「キリエよ。あまり他人を悪く言ってはいかん。お前が思っている以上に世間は狭い。他人にはなるべく良くするに越したことはない。縁というものは不思議でな、良くも悪くも、お前がしたことは結局、お前に全て帰ってくるんじゃぞ」
今回だってそうじゃろう。
祖父はそう思ったが、そこまで言葉にはしなかった。
それはいまキリエこの子がいちばん実感しているはずだからだ。
†
二人はそれから1時間ほど話したが、妙案は出なかった。
「さて、話が煮詰まって来たな。なんとか出来んか、わしも動いてみよう。お前もいろいろ検討しておくんじゃ。くれぐれも早まった真似はいかんぞ。連携は緊密にな。”ゲート”では形が残ってしまうから、何かあれば念のため、こうして直接話した方が良いじゃろう」
うん、わかった。と言ってキリエがソファを立つ。
キリエは背を向けて歩き出し、部屋を出ようとする。
そのとき、祖父が後ろから硬い声をかけた。
「ときにキリエよ、彼ムータロは今、どうなんじゃ」
ムータロの何・が・どうなのかを省いた尋ね方。
この問いには主に二通りの解釈があった。
ム・ー・タ・ロ・が・い・ま・ど・ん・な・状・態・な・の・か・。
ム・ー・タ・ロ・が・い・ま・何・を・し・て・い・る・の・か・。
祖父がどちらを念頭に置いているのかは、聞くまでもなかった。
だがキリエは顔だけで半分振り返ると、下唇を噛み、目を伏せてこう答えた。
「彼は…………… ひとまずご飯をたべて、今は眠ってるはず」
祖父のその問いに対し、誠実に答える勇気を持てなかった。それほどまでに、自分がムータロに施した処置は惨むごいものだった。
「そうか…… ならよいんじゃ」
察することに長けた奥ゆかしき老人は、今はそれ以上を聞かなかった。
† † †
===================
お元気かしら?
この間はばったり会って、お話楽しかったわ。
市場バザールで食材を色々買っていたようだけど、誰に作って食べさせたのかしら?
キリエちゃんの手料理を食べられるなんて、本当に幸運な殿方ね。
ところで、最近少し元気が無いんじゃなくて?
きっと色々悩みや気になることがあるのね。
大丈夫、恋の悩みならこの私に任せなさい。
これでも昔はずいぶんもてたものよ。たくさんの男の子たちが私を争ってそれはもう…………って私ったら、最近こうやってすぐ昔の話を始めちゃうのよね。やっぱり歳なのかしら? ほんと、歳はとりたくないわねぇ。
というわけで、久しぶりにお茶でもいかがかしら?
キリエちゃんならいつでも大歓迎よ。
来るときはメッセージちょうだいね。美味しいお茶請けを用意しておくから。
それじゃ、待ってるわね。
===================
実家から戻ってみると、キリエ宅の”ゲート”にはそんなメッセージが届いていた。
送信元を見ずとも、文面だけで誰からなのか分かる。
いつもながら上機嫌な文面である。彼女はきっと常に上機嫌なのだ。
だがキリエは、
(ほんっと、なんて空気の読めないメッセージなの……)
正直、そう思ってしまった。
キリエは最近、マーガレットのことを避け気味だった。
別に嫌いになったわけではない。ただ彼女は、キリエにとって避けたい方面の話題を、察することなくぶっこんでくることが多々あり、それをかわすのを最近少し面倒に感じてきたのだ。
そもそも今は、お茶などしている場合では無い。
キリエはメッセージを無視スルーした。
さて、そんなことより一刻も早く、ムータロ救出の手法を考え出さねばならない。
時間は限られているのだから。
今日のように有給を取って処刑完了日リミットまでの時間稼ぎという手もあるけど限度があるし、それにムータロの体力だっていつまで持つかわからないし、でも今日はもう有給取っちゃったから世話しに行ったら処刑完了日リミット迫っちゃうし、そしてなにより、あの獄司のことをなんとかしないといけないし、あいつが周りのみんなにある事ない事いろいろと喋ってるかもしれないし、いやあいつのことだから絶対喋ってるだろうし……………… ああもう、どうすればいい………
だめだ。だいぶ頭が疲れていて、このまま考え込んでも妙案が浮かぶ気がしなかった。
(はあ……)
ベッドに倒れ込んで溜息をつく。
するとふいに、今日会話した祖父の言葉が脳内再生された。
──他人にはなるべくよくしておくに越したことはない──
それはその通りだと思うけど、今はそんな状況じゃないでしょ。
と、キリエも脳内で反論する。すると、
──縁というものは不思議でな──
と、脳内祖父から再反論。
キリエはまぶたの裏に、マーガレットのあの朗らかな顔を思い出す。
ボリューミーなブルネットヘアー、年齢の割に大柄な体格。
止まらないマシンガントーク、なんでも自分に都合の良いように解釈してしまう曲解能力。
疲れる相手ではあった。
それでも、嫌いにはなれない人だった。
枕に顔を埋め、そこに染み付いた自分の髪の匂いを呼吸しながら、キリエは思う。
”自分がしたことは結局、自分に全て帰ってくる”んだっけ。
じゃあ私が今日、寂しがりの老婦人のお茶の相手をしたら、一体何が返ってくるっていうのかな。
──お前が思っている以上に世間は狭い──
と、またもや脳内祖父。
(ああもう、頭ん中でうるさいよ…… わかったわよ。よくわからないけど、とにかく分かったから………)
†
脳内祖父の執拗な説得に根負けしたキリエはベッドから体を起こした。
そして、「今日、少しだけ大丈夫ですか」と、メッセージを送信した。
返信は、その5秒後に来たのだった。
† † †
石畳のストリートに面した、三階建て集合住宅アパートメント。
このあたりの建物が概ねそうであるように、ここも一階は商業施設テナントになっている。
カフェを横目に階段を上ったキリエが目的のドアを叩くと、いつものように、満面の笑みと上機嫌な声が出迎えた。
「んもーぅ、待ってたわよ、ささ、お入りなさいな」
「お邪魔します」
薄水色ペールブルーを基調とした内装のお茶の間リビングに通される。
古い木製家具。行き届いた掃除。大切に使い込まれた茶器。
開け放たれた滑り出し窓から注ぐ、初夏の陽光。
入り込む柔らかな風。窓枠に飾られた花。
赤白ギンガムチェックのクロスがかけられたテーブルには、すでに紅茶ポットとお茶請けの菓子スフレが準備されている。
部屋中に漂う、焼きたてのメレンゲの香りと、柑橘アールグレイの爽やかなフレーバー。
ぐぅぅぅぅ。
と、お腹が鳴り、キリエは自分が空腹だということに気付く。
今日はまだ、何も食べていなかった。
†
「んもーぅ、それでね、あの時キリエちゃんが助けてくれて、ああ、なんていい子なんでしょう、自分にこんな娘がいたら、って思ったものよ」
「そんな、べつにわたしなんて………」
二杯目の紅茶を飲み終わりそうな頃、話題は、マーガレットとキリエが初めて出会った時の話になっていた。
二人の出会いは半年ほど前のこと。路上で転んで腰を打って動けなくなっていたマーガレットを、たまたま通りかかったキリエが治療したのだ。
キリエはそれ以来、時々こうしてマーガレットのお茶の相手になっていた。
「お役所なんてやめて、お医者さんになったらいいんじゃなくて? わたしね、キリエちゃんには、苦しんでる人を助けるようなお仕事が向いてると思うの」
会話では基本的にオープンに話したキリエだったが、さすがに管理局の処刑官であることは伏せ、役所勤めということにしていた。
「そんな、べつにわたしなんて………」
「あら、そうかしら。キリエちゃんにはとっても合ってると思うけれど?」
「そんな、べつにわたしなんて………」
キリエは、自分が先ほどから全く同じ返答を繰り返していることに気が付いている。
それは、これまで生きてくる中で、いつからか口に馴染んでいたフレーズだった。
†
この世に花エリニュス として生まれた者たちが、等しく経験する事柄があった。
いわずもがなそれは、他者からの羨望。嫉妬。好奇。異端視。
キリエちゃんはエリニュスだから。
私たちとは違うから。
昔、初等学級エレメンタリで誰かに言われたそんな言葉が、今も胸に残っていた。
祖父の男手ひとつで育てられ、家では一人の時間を多く過ごしてきたせいか、どうもキリエは同世代とのコミュニケーションが不得手だった。
そんな彼女にとって、学校はあまり居心地の良い場所とは言えなかった。
授業の合間は一人で本を読み、その日の全クラスが終わるとすぐに家に帰った。
友人はいなかった。一人で何かをしているほうが好きだった。
はっきり言えば、”コミュ障”と呼んでも差し支えなかったかもしれない。
しかし、そんな欠点を差し置いても、彼女の美しい容姿、そして、”エリニュスである”という事実は、嫌でも人目を引かずには置かないものだった。
校内階層カースト最上位の男子ジョックから交際を申し込まれたことも一度や二度ではない。
その度にキリエは、彼らを振った。
難攻不落の高嶺の花エリニュス。
見目麗しき謎めいたはぐれっ子フローター。
今日もまた一人、あえなく撃沈する男子ジョック。
そんなキリエを、キラキラ女子クインビーやその取り巻きサイドキックたちが良く思うはずがなかった。
ねえ見て、あの子またひとりでご飯食べてる。
ほんと何様? お高く止まっちゃって。
xxxくんから告られて、あいつ振ったらしいよ。
ふん、何よ。あんなの、男どもはいったい何がいいんだか。
それは陰口から始まり、やがて実際的な害にも及んだ。
あなたっていいわね、年を取っても老けないんでしょ?
ねえ、何か魔術使って見せなさいよ。
ほんと手足が長いのねぇ。
ねえみんな、この子の足ってまっすぐで、なんだか蛇鶏コカトリスみたいじゃない?
あはははは! ほんとそんな感じ。さすがxxx、センスあるぅ(一同笑)。
あなたの背嚢リュックが無い?
さあ、私たちに言われても、そんなの知らないわ。
え? フローレンスのシグネチュアモデルで、お気に入りだった?
だから、私たちは知らないわよ、そんなの(笑)。
中等学級カレッジを飛び級で卒業するまでは、そんな調子で忍ぶ日々が続いた。
高等学級リセに進級しても相変わらずぼっちのキリエだったが、ついに一人だけ、友人と呼べる人間ができた。
キリエと同じように飛び級してきた子で、名をローズといった。
お世辞にも器量好しとは言えない。背丈は低く、ちんちくりんで、どこかピッグスめいた顔立ち。キリエと並び立つと、なんというか、見ているほうがいたたまれなくなるような、そんな風貌の少女だった。
しかし、そのように見た目ルックスこそ対照的な二人だったが、飛び級同士、本好き同士、はぐれっ子フローター同士で、妙に気が合った。
彼女と出会い、キリエは初めて、学校を楽しいと感じるようになった。
二人は他愛ない話をした。時には真剣な話もした。
年頃の娘達である。もちろん、それ相応の話もした。
ローズから意中の少年の名を聞いたキリエは、彼女のために奔走した。
自らその少年に接触し、それとなくローズのことを話すと、悪く無い感触だった。
キリエはローズの背中を押した。
彼女は意を決し、少年に想いを伝えてみる、と言った。
翌日キリエが「どうだった?」と尋ねると、ローズは目線を落として、口元だけ笑ってこう言った。
xxxくんは…………あなたキリエのことが好きだって。
それ以降、キリエは自らの外見的評価をきちんと自覚し、身・だ・し・な・み・に気を使うようになった。自分を魅力的に見せるためではなく、自・分・が・で・き・る・だ・け・野・暮・っ・た・く・見・え・る・よ・う・に・気を使うようになったのだ。
キリエはおしゃれをしなくなった。その代わり身に纏ったのは、
シンプルな白ブラウス。
藍染色インディゴの綿ズボン。
ぺったんこの革製婦人靴パンプス。
いかにも秀才ガリ勉女子、といったふうの丸眼鏡ロイド。
今に至るまで通し続けている、だいぶ地味目な普段着カジュアルスタイルの誕生である。
さて、キリエとローズの関係だが、表面上は何も変わっていないように見えた。
だが交わす言葉の端々には、ほんのわずかに、しかし確実に、以前は無かった棘が入り込むようになっていった。
ある日、些細なことで口論になった。
何かを予感したキリエはすぐに矛を収めた。
だが、相手は止まらなかった。
そしてついに、泣きながら、決定的な言葉を紡ぎ出したのだった。
ねえ、こうしてあなたと話したりするの、もうやめてもいい?
あなたと友人でいたら、私、それだけで色んなものを奪われちゃう気がする。
別にあなたが悪いわけじゃ無い。
でもたぶん、自然にそうなっちゃうの。
だって私がこんなピッグスみたいな醜女ぶすなのに、あなたは。
あなたは、エリニュスなんだもの。
†
「そんな、べつにわたしなんて………」
もはやそのフレーズはキリエにとって、それ自体には意味を込めず、それを枕に何を言うでもなく、ただ渡る世を無難に処すための、便利な呪文マントラのようなものだった。
だが今のキリエには、その先に続く、ある思いがあった。
しかしやはり口には出せず、それらを紅茶とともに飲み下した。
軽く持ち上げたカップ。
浅く揺れる紅茶に映る、見慣れた自分の顔。
放っておけば無限に話し続けるマーガレット。
魔導人形オートマタめいて無難に応答する自分。
キリエはいつしか、思考と自己が分離したかのような奇妙な心の静けさを感じながら、ふと、窓枠の花に目を向けた。
一匹の熊蜂バンブルビーが、赤い花弁の中心に頭を突っ込んで、一生懸命に雌しべを弄っていた。
(授・香・し・て・る・みたい……)
そう思った。
窓枠の花に、自分の姿を映し見た気がした。
この世に花として生まれてくるとはどういうことか。
「あらキリエちゃん、もっと菓子スフレを食べなさいな。んもーぅ、遠慮なくおかわりしていいのよ。ほんとあなたって、奥ゆかしい子よねぇ。うちの孫トーマスにもちょっとは見習わせたいものだわ。そうね、彼のお友達になってもらえるといいのだけど。」
「そんな、べつにわたしなんて………」
言いながらキリエは、今日マーガレットが自分を描写した言葉達を思い出す。
苦しんでいる人を助けるような仕事が向いていると思うわ……
なんていい子なんでしょう……
自分にこんな娘がいたら……
奥ゆかしい子よねぇ……
お友達になって……
そんな、べつにわたしなんて。
苦しんでいる人を助けるのなんて、向いてません。
奥ゆかしくないし、いい子でもありません。
友達なんて、一人もいません。
だってわたしなんて、
自分が美しいことをわかっていて、
それに優越感を抱いていて、
可愛い生き物の苦しむ姿が好きで、
ピッグスを処刑するのが仕事で、
彼らを切り刻んで股間を濡らして、
自分の兄を嬉々として壊し尽くすような、
そんな、
拷問狂いの、
筋金入りの、
変態女ですから。
ぽた、と紅茶に雫が落ちた。
ぽた、ぽたっ、ぽたっ。
二滴、三滴、四滴。
変だ。こんなところに雨が降っている。
そしてそれはどんどん雨足が強くなっているようだ。
ぽた、ぽたっ、ぽた、ぽたっ、ぽたぽたっ、ぽたっ………
「キリエちゃん?」
マーガレットがキリエの異変に気付いた。
「あらあらあらあら、あらあらあらあら。大丈夫かしら? ごめんなさいね、んもーぅ、なんでしょう私ったら、お役所をやめろだなんて、軽々しく言っちゃって、ほんと、年をとるとこれだから……」
老婦人は席を立って歩み寄った。
そして、声も立てずに涙するキリエの顔を、そのふくよかな胸に抱いた。
「よしよし、いいのよ。いいの、大丈夫。きっとあなたにも色々あるのよね」
マーガレットが、胸に抱いたキリエの後頭部を優しくぽふぽふしながら、労わりの言葉をかけた。
そう、自・分・に・は・色・々・あ・る・。
色々あって、いま大変なんです。
と、キリエの心の中の妙に冷静な部分が、心の中でマーガレットに答える。
いつしか、自・分・の・外・側・か・ら・、わんわん泣きじゃくる自分の声が聞こえていた。
思えば今日は不思議だった。
なぜあんなにしつこく、ここへ来るよう導かれたのか。
キリエは今、その答えに思い至った。
自分は、誰かの胸でこうして泣きたかったのだろう。
†
ひとしきりマーガレットの胸を濡らし、だいぶ落ち着いたキリエ。
先ほど感じていた、思考と自己の奇妙な分離感もすっかり消えていた。
今日はもう帰ろう。
ずいぶんと見苦しいところをこの人マーガレットに見せてしまった。
「マーガレットさん。なんだか今日はごめんなさい。そろそろ失礼しますね」
キリエは少し塩っぽくなった紅茶を飲み干すと、お礼を言って席を立とうとした。
その時だった。
──ガチャ、ギィーーーッ、ガチャコン──
と、玄関のドアが開閉する音。
「あら、トーマスかしら? トーマス、お客様よ! こっちに来てご挨拶なさい!」
「はいよ」と向こうから返ってきたのは、野太い男の声だった。
なんとなく何処かで聞いた声のような気がしたが、まあ、気のせいだろう。
この声はマーガレットの孫、トーマスという名の青年のもので、キリエが会うのは初めてだ。当然、声を聞いたことなどがあるはずがない。
マーガレットはキリエとお茶をする際、折に触れては彼のことを口に出した。彼女の話を総合すると、トーマスは大柄で運動が得意な、王都の公共機関に勤める青年とのことだった。そしてマーガレットはやや執拗に、キリエをトーマスに会わせたがっていた。キリエは今まではなんとかそれを避けることに成功していたのだが、ついに今日、その時が来てしまったようだ。
(はあ、帰ろうとした時に…… タイミングわる……)
内心ちょっと面倒くさいキリエだったが、こうなってしまっては、挨拶もせずに帰ることは出来ない。
行儀よく椅子に座りなおし、対面の瞬間を待つ。
やがてリビングに、重たそうな荷物を抱えた大男が現れた。
「ふぅーーーっ。重てえ。よっと。ほらばあちゃん、頼まれてたやつ買ってきたぜ」
彼はテーブルにどすんと荷物を降ろし、いかにも疲れたように首を鳴らして自らの肩を揉む。
(は?)
キリエは目が点になった。そして、まじまじと彼を見つめた。
普通の人間にしてはかなりの長身。加えてガタイも良い。
流行りなのだろうか、やけに鋭角的に整えられた濃ゆい顎髭と、側頭部が刈り込まれ、ボリューミーな頭頂部に整髪剤グリスがテカテカ光る濃いめのブルネットヘアー。頭と同じ太さの首と、はだけた胸元から覗くモジャモジャの体毛。筋肉もりもりのふとましい二の腕。尻と太ももがピチピチのタイトなズボン。いかにもメンズフェロモン全開と言った感じで、世の中的には”マッチョな色男”といったところだろう。
──縁というものは不思議でな──
脳裏に、今日の祖父の言葉が蘇った。
トーマスがこちらに目を向けた。
「どーも、自分はトーマスって…………… ん? ア、アンタは……」
同じく目を点にして、驚きの声をあげたのは、管理局第七監獄の、獄司であった。
第四章 Act.6 パーシュエイド・ザ・プリズンガード
「助けておやりなさい」
マーガレットは端的に、かつ断固としてトーマスに言い放った。
人生には、まこと不思議な縁というものがあるのだった。
来るつもりのなかった今日の茶会。
その帰りの間際における、全く予期せぬ獄司トーマスとの邂逅。
ここが勝負所と直観したキリエは、その場で自分とムータロに関する洗いざらいを告白した。
むろん、それは大きな賭けではあった。
うまくいけばムータロ救出の大きな助けとなる。
うまくいかなければ、最悪、全てが終わりとなる。
そして彼女はいま第一の賭けに勝った。
マーガレットは全く迷わず、キリエの味方をしたのだ。
しかし、第二の賭けはまだ雲行きが怪しかった。
「おいおいおいおい、ちょっと待て。そりゃ冗談じゃねえぞ……!」
眉間にしわを寄せて腕を組むトーマス。当然の反応だった。受刑者を故意に逃すとなればそれは管理局規則違反、のみならず重大な違法行為となってしまう。苦労して手に入れた仕事である。それをなぜ、このいけ好かないエリニュスのために危険に晒さねばならない。仮に助けたとして、もし失敗してバレたらどうなる。それはただ仕事を失うだけに留まらず、人生を大いに毀損することを意味するのだ。その重みを、この祖母は本当にわかっているのか。
「ありえねえ。全くありえねえよ。ばあちゃん、自分が何を言ってるかわかってるのか」
「わかっているわ。男の子が女の子を助ける。当たり前のことよ」
さも当然と言わんばかりのマーガレットの答え。だがそれはトーマスの問いの意図とは噛み合っていない。彼女はいつもこの調子で、なんでも自分の都合のいいように解釈してしまうのである。このペースに飲まれると危険だった。トーマスは主導権を渡すまいと言葉を続けた。
「いやいや、そうじゃなくてだな。おれが言いたいのはつまり」
「トーマス、この子は私を助けてくれたのよ」
マーガレットは相手を遮り、真面目な顔で言った。
トーマスは返す言葉に詰まる。恩には恩で報いるべき。それは確かに一理あった。
「……ああ、その話は聞いてたが、そのキリエちゃんてのがまさかこの……」
と言ってトーマスが目を向ける。
するといつもの丸眼鏡ロイドを外したキリエが、椅子にちょこんと座ったまま、不安げに判決を待つネコ科魔獣の幼獣めいた瞳で、今にも何かが溢れそうな様子でこちらを見上げていた。
(うっ……! なんて顔してやがる)
キリエのその表情には、トーマスの庇護欲を強力に掻き立てる何かがあった。
思わず目を背け、強い口調でこう言った。
「と、とにかく駄目なもんは駄目だ! 今日聞いたことは忘れといてやる。じゃあな!」
そう乱暴に言い捨てて、急いでリビングを出ようとする。
その時──
「トーマス。あなたはそれでも男かしら」
静かな、低い声が響いた。
トーマスはビクッと立ち止まり、ゆっくり向き直った。
マーガレットの声から明るさが消え去り、目が据わっている。
「そ、そりゃ、そのつもりだが…」
祖母が本気モードに入ってしまったことを察し、唾を飲み込んで慎重に答える。
「キリエちゃんを見なさい。あなたは女の子を泣かせて、男として何とも思わないのね」
トーマスが見やると、いつの間にかキリエは手で顔を覆い、頭こうべを垂れてシクシク泣き始めている。しかし──
「え…? い、いや、それはべつにおれが悪いわけじゃ……」
と、トーマスが事実を口にしたその次の瞬間だった。
『トーマス!!!』
マーガレットが突然激昂!
いきなりの声量をもろに浴びたトーマスが尻餅をつき、外では近隣一帯の鳥たちが異変を察知して一斉に飛び立っていく!
「まったく、体ばかり大きくなってとんでもない臆病者チキンなのね! 困っている女の子を放っておくだなんて、そんなふうに育てた覚えはないわ!」
マーガレットは目を三角にして、顔を真っ赤にしてまくし立てた。
大音声の衝撃波で軽い脳震盪を起こしていたトーマスだが、揺れる視界の中でなんとか立ち上がって言葉を返す。
「た、助けろって言ったってな、そいつはどう考えても違法行為イリーガルだろ! もしバレたら、おれがとっ捕まるだけじゃねえ。ばあちゃんだって後ろ指をさされることになるんだぜ?」
至極真っ当な反論であった。しかし──
「違法イリーガル? 妹が兄を助けるのが違法ですって? もしそうならそれは法律ルールのほうが間違ってるわ! そんなものを気にする必要はありません!」
怒りのマーガレットは王都の法の定めすら一蹴してしまうのである。
「ばあちゃんはそう思っても世の中はそう思わねえんだって! それに悪事は絶対バレるって相場が決まってんだ!」
トーマスは身振りを交えて、至って常識的な反論をする。
しかしマーガレットは──
「いいえ。そんなことありません。それに頭のいいキリエちゃんなら、きちんとバレない方法を考えてあるはずよ。そうよね、キリエちゃん?」
「ひぐっ… ひぐっ…… はい、考えてあります」
水を向けられたキリエは、顔を覆ってひくつきながらも、”考えてあります”という言葉だけはなぜかやたらと明瞭に答えた。
「聞いたわね。ちゃんと考えてあるのよ!」
マーガレットは断固とした口調で結論した。
トーマスは今の問答がなぜこの結論に達してしまったのかよくわからないまま、それでも気を取り直して次なる反論を試みる。
「あ、あのな、この女は職場でいつも俺のことを嫌ってたんだ! 考えがあるなんて言っといて、俺を犠牲にする魂胆かも知れねえ!」
トーマスはまったくの事実を踏まえて反論する。
しかしマーガレットは──
「キリエちゃんは人を騙す子じゃありません。あなたのことも嫌いじゃないわ。そうよね、キリエちゃん?」
「ひぐっ… ひぐっ…… はい、トーマスさんのこと嫌いじゃないです」
キリエは顔を覆ってひくつきながらも、”嫌いじゃないです”という言葉だけはなぜかやたらと明瞭に答えた。
「ほら見なさい。嫌いじゃないのよ!」
と、マーガレットはやはり断固として結論した。
トーマスは今の問答がなぜこの結論に達してしまったのか、やはりよくわからないまま、それでも気を取り直し次なる反論を試みる。
「き、嫌いじゃねぇだと? だったらなんでいつも俺にだけあんな態度だったんだ!?」
言うに事欠いたトーマスは素朴な疑問をぶつける。
するとマーガレットは呆れたように──
「女心を何もわかっていないわね。あなたみたいな大男を見たら、女の子は誰でも多少は警戒するものよ。そうよね、キリエちゃん?」
「ひぐっ… ひぐっ…… はい、筋肉もりもりで、怖かったです」
キリエは顔を覆ってひくつきながらも、”筋肉もりもりで怖かった”という言葉だけはなぜかやたらと明瞭に答えた。
「わかったわね? あなたの筋肉が怖かっただけよ!」
マーガレットはやはり断固として結論!
なにかがおかしい──と、トーマスは思う。
先ほどから一連の問答がことごとく謎の結論に達してしまっている。
祖母はいつもの調子だから特におかしくはない。
だがもう一名の言っていることは明らかに──
トーマスは違和感の原因に思い当たり、キリエを見やった。
すると──
(こ、このクソ女アマッ……!)
なんと、キリエは一見シクシク泣いているように見えたものの、よく見ると顔を覆った指の隙間から上目遣いを覗かせ、事の成り行きをしっかりと観察しているではないか!
「ばあちゃん! 見ろ、ウソ泣きだ!」
トーマスは指をさして演技を糾弾!
しかしマーガレットの老眼が焦点を結んだ時には既に──
「うああああああん!! そんな、ウソ泣きだなんて……!!! うあああああああん!!!」
一瞬で顔を伏せたキリエが号泣!
『トーマス!!! また泣かせたわね!!!』
マーガレットは更に激昂!
「もういいわ! あなたじゃ話になりません! 管理局に行って直談判よ!!!」
鬼の形相のマーガレットが勢いよく席を立つ!
そして赤黒く変色した顔でどすどすと迫る!
トーマスは焦った。祖母はこうなったら止まらない。本当に管理局に殴り込んでしまうだろう。そしてこの調子で大暴れされたら、話がどう転ぶかわかったものではない。このまま行かせるのはあまりに危険すぎた。
「ま、ま、ま、待てって! わかった! わかったから落ち着いてくれ!」
回り込んで出口を塞ぐトーマス! しかし──
「何をわかったというの! いいからその図体をさっさと退かしなさい!」
マーガレットのボルテージはまるで収まる気配がない。
トーマスは覚悟を決めるしかなかった。
もはや、祖母を止めるために残された言葉はたった一つしかない。
「助けるよ! 助けりゃいいんだろ、その女を!」
…
………
………………
一息に言い切ったトーマスが恐る恐る目を開ける。
マーガレットの進撃は、ぴたりと止まっていた。
†
「……私はね、もうすぐ80歳になるわ」
穏やかに語り始めたマーガレットに、同じテーブルの若い二人の視線が注がれる。
「思えば色々なことがあったような、なかったような人生だったわ。もちろん、悪い人生だったとは思っていないけれど。最愛の人と結婚して、子供と孫にも恵まれた。今はお茶の相手もいて寂しくないし、お金にも不自由していない。自分はつくづく幸せな老人だと思っているわ。でも──それでもね、やっぱり歳をとるって切ないものね。夫には先立たれ、お友達も一人づつ減っていって。私自身も、そうは見えないかもしれないけど、頭も体もずいぶんガタがきているわ。腰は痛いわ頭はボケるわ、ほんと、何もいいことはないわね。このごろはもう、さっき何をやっていたかも思い出せない時があるのよ。かと思うと、大昔のことをやけに鮮明に思い出したりする。そしてそんな時に、いつもこう思うの」
マーガレットはいったん言葉を切って目を伏せた。
そしてこう続けた。
「若い頃、もっと挑戦すればよかった、ってね。老いた今、それを心から後悔しているわ」
そう言って、老婦人は何かを軽く否定するような仕草で首を振った。
夕日の差す部屋に沈黙が満ちたが、若い二人はそれを埋める言葉を持たなかった。
彼らは紅茶にも菓子にも手をつけず、ただ老婦人の言葉の先を待った。
やがてマーガレットは顔を上げると、約80年の人生を経たその瞳で、まっすぐ孫の目を見て問いかけた。
「ねえトーマス。あなたはこのまま、かわいそうなピッグスたちを非道ひどく虐めて、それで多少の俸給をもらって、冒険もせず、安定した暮らしに老いていく。そんな人生で本当にいいのかしら?」
「そ、それは……」
トーマスは即答できずに沈黙した。
特に志があって管理局に就職したわけではなかった。
学生時代は運動が得意で、ゆくゆくはそれで身を立てることを考えていたが、怪我で断念した。
その後は特に目標も無かったが、とはいえ働かないわけにもゆかない。どうせやりたいことがないなら、楽で安定した仕事のほうがいい。下級官司あたりが良さそうだ。気楽にもそう考えた。
そんな時、管理局の獄司募集がたまたま目に留まった。
”頑健な男性求む”
これはいい。体格を生かせそうだし、自らが汚れ仕事処刑をする必要もないようだ。
彼は猛勉強し、見事に入局試験に合格した。
しかしこれは世の常なのだが、入ってみると仕事は思ったほど楽では無かった。
処刑を待つピッグスたちの監視、食事、下の世話。
一口にピッグスといっても色々いる。
哀願する者。
取引を持ちかけてくる者。
発狂する者。
自決を図る者。
また、何かの拍子に拘束が解けて大暴れする者もいる。そんな時こそトーマスの”頑健な”体の出番なのだが、彼はそのガタイに似合わず、実際は手荒なことが苦手なタチなのだった。
そんな、ピッグスたちの負の思念渦巻く地下空間での、3交代勤務週休2日。
楽しい仕事でなどあろうはずがない。
とくに、いま同じテーブルに着いている者のところに、泣き叫ぶピッグスを連行する日などは、非常に気が滅入ったものだった。
そしてそんな仕事をこなしていくうちに、いつしかトーマスは、ややニヒルに自分を納得させるようになっていった。
ピッグスこいつらがどうなろうが知ったことか。
ど・う・せ・も・う・二・度・と・会・わ・な・い・の・だ・か・ら・──と。
それでも。
ピッグスたちを非道く虐めて、それで多少の俸給をもらう。そんな人生で本当にいいのか?
そう問われて心から肯定できる者がどこにいるだろうか?
少なくとも自分は違う──トーマスはそう思う。
そして意外なことにそれは、同席するもう一名も同じらしかった。
洟をすする音が聞こえたので、トーマスはチラ見した。
下唇を噛んだエリニュスが、窓から差し込む夕日に美しく横顔を照らされながら、静かに涙を流していた。
今度は、嘘泣きではなさそうだった。
幕間3 その1
夜襲だった。
各所に仕掛けた鳴子ブービー のけたたましい音で目覚め、管理局の強襲部隊ハンター が使う照明魔術弾が新月の闇をオレンジ色に照らすのを見た時、18歳のピッグスは傍の三日月斧を手に取って駆け出した。
王都南方の砂漠地帯。古の城塞都市遺跡。
これは、ムータロ処刑開始から時を遡ること3日前の出来事である。
†
「すみません班長! 僕のせいです!」
「トニー、謝るのは後だ! 照明魔術弾スターシェル を!」
トニーと呼ばれた太めの新人隊員は、背嚢から取り出したスリングショットに特殊な魔術弾をつがえ、夜空に向けて放はな った。射出された魔術弾は上空に達すると強く発光し始め、付近一帯の闇にオレンジ色の光を与えた。すぐに他の場所でも同じように照明魔術弾が光を放ち始め、程なく、あたかも開戦の合図のように、遺跡の夜のしじまを乱す遠い怒号が聞こえてきた。
──くそっ、僕のバカ! こんなことじゃ解雇クビ になっちゃうじゃないか。今日は隊長も来てるのに……
トニーは悔やむ。気をつけろと言われていた足元への注意がおろそかになった。けたたましい鳴子ブービー は、この城塞都市遺跡に隠れ潜む不法居住者達の目をばっちりと醒ましたことだろう。本来ならば、もっと遺跡内に侵入し、全ての班が所定の配置についてから照明魔術弾スターシェル を射つ段取りだった。
「気持ちを切り替えて集中しろ。でなきゃ死ぬぞ」
背中を壁に張り付けて通路の奥を覗き込んでいた班長が、隣のトニーの肩にごつい手をかけて言った。
40代後半のその班長は、隊内で密かに”軍曹”とあだ名され、隊員達──主に若手から恐れられていた。隊内での教育係も兼任する彼は、今年の新人達にも厳しい訓練しごき をおこなっているが、中でもトニーに対してはなぜか、一際ひときわ 厳しい態度を見せるのだった。
「いいかトニーファットボーイ 。お前はレジスタンスやつら に出くわしたら捕まえようなんて思うな。身の安全を優先しろ。幹部はできれば捕らえたいが、無理はしなくていい」
班長が言う。
素直にうなずくトニー。だが脳内では一つの疑問が発生していた。彼は迷った。それを質問したら怒られそうな気もする。しかし班長は訓練の時などいつも、”わからないことがあったら訊け”と教えてくる。うん、今ってまさにそうだよな。よし。
意を決してトニーは質問した。
「──あの、幹部ってどうやって見分けるんですか?」
すると班長は呆れたように片眉を釣り上げ、口も半開きにしながらゆっくり振り向くと、トニーの額に人差し指を突きつけてこう言った。
「見てなんとなく判断しろ! あとは、強そうだったり、見た目が偉そうだったりするやつが大体そうだ!」
「──り、了解しました、すみません……」
やっぱり怒られてしまった。というか、別に怒ることないじゃないか。わからなければ訊けっていつも言うくせに。だいたい、”見てなんとなく”ってなんだよ。これだから職人気質なタイプは苦手だ。
内心で愚痴るトニー。
するとそれを察したのだろうか、少し語気を和らげて班長は続けた。
「……トニー、今は作戦中だ。余計な質問は無しだ。わかったな?」
「は、はい」
「よし」
部下への体育会的指導を終えた班長は、改めて進路上の敵なしクリア を確認すると、後方の班員達へ手で合図を出した。班員ハンター 達は、統率された黒猫の群れのように、静かな殺気を秘めた足取りで、遺跡のさらに奥深くへ進んで行った。
†
「何してるんです、ムータロさんも早く!」
声変わり前の少年兵ピッグス が、石床に偽装した地下への隠し階段から顔を覗かせて、急かした。だが、急かされた人物──伸縮式の三日月斧を背負ったその青年ピッグス は、周囲の様子を見回して少し思案した様子を見せた後、少年兵の提案を拒否した。
「みんなを連れて先に行け。俺は後から行く」
「なぜです?」
少年兵のひび割れた唇が疑問を発した。
「今回の奴ら管理局 はかなり大規模だ。総出で家捜やさが しされたら、この隠し通路が早々に見つかる恐れがある。陽動役が要る」
三日月斧の青年が説明する。すると年齢不相応に物事をわきまえた少年兵は、それ以上時間を無駄にしなかった。
「でも……いえ、了解です」
「杉の森カディーシャ に向かえ。野宿していれば迎えが来るはずだ。もし俺が戻らなかったら、念のため拠点を放棄して移動してくれ」
「承知しました。ご武運を」
少年兵は心臓に拳を当てて敬礼し、ムータロもそれに返礼する。
跳ね上げ式の入り口が静かに閉じられる。ムータロが軽く砂を均すと、それは周囲の石床と一体化した。
「さて……」
ムータロは改めて周囲を見回す。
冷たい砂漠の夜。長年にわたる太陽と風の侵食で、輪郭の鋭さを失った玄武岩の建物たち。迷路のように巡らされた通路。
ここはレジスタンスの数ある拠点のうちの一つだった。首領からその拠点長ボス を任じられているのがムータロである。決行期日の迫った王都でのテロに備えて、20人ほどの部下達とここに潜伏していた。
「どこがいいか…」
素の口調で、そんな呟きが漏れた。
少年兵部下 にはああ言ったが、ムータロは自分の生還を計算していなかった。
強襲部隊が襲うということは、当たり前だが──ここに自分たちレジスタンス がいるのを知っているということだ。それが、襲ってみてもぬけの殻だったとしたら、奴らはどう考える? 遺跡内のどこかに秘密の脱出口があると考えるのが自然だ。隠し階段の偽装は良くできているから容易に見抜けないだろうが、それでもくまなく探されたら発見されてしまう恐れはある。ここで自分一人が犠牲になって部下達が全員逃げおおせるなら、そのほうがよい。単純な算数だ。
死ぬ覚悟は常にあった。というかむしろ、心のどこかでこういう状況を待ち望んでいた気さえする。
胸の内に秘めたタナトス。しかしそれとは裏腹に、彼の足が向かったのは、あくまで戦術的見地から見定めた決戦の地であった。
「少し広すぎるか……まあいっか」
彼が足を踏み入れたのは、城塞都市遺跡中央付近の円形劇場ローマン だった。
半円形に広がる無人の観客席。奥へ行くほど段が高くなっている。
なんとなく、その中のひとつに座ってみた。足裏が床につかない。当然だ。この席は普・通・の・人・間・の為のものであって、自分はピッグスなのだから。
眼下にはやはり無人の舞台。そこで演じられていたであろう、愛と憎しみ、生と死、そして暴力。
自分もきっと、この世という舞台で踊る一人の役者なのだ。
ムータロはふと、感傷的にそう思った。
しばし物思いに沈んでいたが、夜が微かにざわつくのを感じた。どうやら敵さんが来たらしい。
胸いっぱいに息を吸い込んだ。冷たく澄んだ空気が肺を洗う。目をきつく閉じ、奥歯を噛みしめ、脳内麻薬アドレナリン の分泌を感じ取る。
目を開けて、改めて無人の舞台を眺めた。
いい場所だ。最後に思い切り暴れるのには、なんともおあつらえ向きではないか。
†
いくつも角を曲がり、通路みち を通り、建物を抜け、瓦礫を乗り越え、周囲のクリアを確認した。しかし一向に、ピッグス達と遭遇する気配はなかった。開始直後のトラブルとは裏腹に、作戦は不気味なほど静かに進行していた。気づけば索敵は遺跡中央部にまで達していた。
眼前に列柱に囲まれた通路が現れた。その先のアーチ型の門をくぐると、円形の観客席が視野に広がった。
「円形劇場ローマン だ…」トニーファットボーイ が呟く声が聞こえた。
彼ら──班長以下5名が出たのは25メートルほどの細長い舞台上であった。左右にそれぞれ10本ほどの列柱が並んでいる。舞台下は半円形の広い床。その向こうは客席で、遠くに行くほどすり鉢状に高くなっている。
「うっはあ。すごい。かっこいいなあ。王都の劇場もこういうの作ればいいのに」
すっかり緊張の糸が切れてしまった新人隊員が場違いな感想を漏らすのを聞くと、”がしっ”という効果音の合いそうな手つきで、班長はその襟首を掴んだ。
「トニー坊やは遠足に来ているのか? すると俺はお前の優しい担任教師なのか? ん?」
ゼロ距離で怒りの笑顔を作ってみせると、トニーは「す、すいません」と言って口をつぐんだ。
──まったく、しょうがないヤツだ。
トニーの襟を解放した班長は内心でため息をついた。今年の新人をいろいろ見ているが、このトニーファットボーイ はあからさまに戦いに向いていない。こういうヤツは現場ではなく、本局に出向でもさせて後方任務デスクワーク に当たらせるべきなのだ。実際、隊長には何度かそう進言した。隊長も隊長で何を考えているかよくわからない人物だが、少なくともその旨を部隊運用担当者ホワイトカラー に伝えてくれてはいるはずだ。しかし、今の所とくに人事的な話は聞こえてこない。以前の担当者であればそういう現場の意見にも柔軟に対応してくれたものだったが、今の担当者に代わってからは全く聞いてくれなくなった。非常に優秀な者だとは聞いている。なんでも飛び級で王立大学を卒業したのだとか。だが、現場をわかっていない者の机上の空論が、今までどれほど多くの悲劇を生んできたことだろうか。長年の現場キャリアの中で、彼はそれを嫌という程味わってきた。それに──
──こいつを死なせちゃ親御さんに申し訳が立たんからな……。
子宝に恵まれなかった班長にとって、若い新人隊員達は息子や娘のようなものだった。そんな彼らを無為に死なせたくは無かった。
†
初めて狩りに出たのはいつのことだっただろうか?
砂漠の夜風に吹かれながら、長身の女は幼い頃を回想した。
王都の猟兵だった父親に連れられて、鹿か何かを仕留めた気がする。
自分はきっと天才というやつなのだと思う。
最初に習ったのは弓だった。習い始めてひと月ほどで、父親からは「もう教えることはない」と言われた。
次は剣。道場で初めてその鋭い金属を持った瞬間、そ・れ・を・ど・う・使・え・ば・良・い・の・か・が感覚的に分かった。大の大人達が、初めて剣を手にした少女に手も足も出ずひれ伏した。
その後はたくさん狩りをした。
弓だと簡単すぎてすぐに飽きた。
剣のほうが好きだった。腕に獲物の生命が直で伝わってくるのが心地よかった。
やがて普通の動物では物足りなくなり、魔獣狩りを始めた。
最初のうちは楽勝だった。この調子なら、魔獣全種をコンプリートする日も遠くはないだろう。
それは挫折を知らない子供特有の全能感だった。
当然、自分の甘さを思い知る日が遠からずやってきた。
魔獣グリフォン。
雷鳴轟く山頂で対峙するその巨体は、絶望と死を司る天使のようにも見えた。
これまでの人生で、本気で死を覚悟したのはあの時だけだ。
矢は尽きた。剣で戦うしかない。だが無理だ。届かない。
グリフォンが羽ばたき、上昇を始める。
奴は上空に達するとホバリングをはじめた。グライダースパイクの前兆。避ける体力はない。自分はこんなところで死ぬのか。
刻々と迫り来る圧倒的な死。だが最後まで諦めるわけにはいかない。
──何か、何かないのか、奴に届く攻撃手段が!
それこそ必死で考えた。しかし、気持ちばかりが焦って、何も思い浮かばない。
ホバリングの羽ばたきが止まった。それは死の宣告のカウントダウンがゼロになったことを意味した。
グリフォンの顔がニヤリと確かに笑い、巨体が滑空を開始した。
無慈悲に迫る死の巨鳥。全てがスローモーションと化した。
やはり自分はここで死ぬのか。
そう思った時だった。
低い雷鳴が轟き、空に光の亀裂が走った。
それを見てなぜか、そ・れ・が・で・き・る・ことを確信した。
導かれたような無心さで、剣を振るった。
数時間後、麓の村に無事にたどり着いた。魔獣グリフォンの首を手土産にして。
「あれから100年か……」
回想から覚め、女がひとりごちた。
「早いものだ」
そう言って彼女は空を見た。
照明魔術弾のオレンジ色の光。
けたたましい鳴子ブービー の音。
こうして現場に出てくるのは久しぶりだった。
今日はなんとなく、楽しい狩りになりそうな気がした。
†
「ピッグスどもはいません」
「こっちもです」
「もう逃げたんでしょうか」
舞台上に戻ってきた部下達が異口同音に報告する。
やはりこの円形劇場内にもピッグスはいないようだった。
班長は、残る一人の班員を遠間から小声で呼んだ。
「そっちももういい。戻ってこい」
「は、はい」と小声で返事が聞こえ、太ったシルエットが観客席から駆け足で戻ってくる。だがその人物はなぜか舞台下の床中央で一旦立ち止まると、再び観客席の方を振り返った。
「どうした」
班長が問うと、部下は向き直って答えた。
「なんか音が──や、多分気のせ」
「トニー後ろだ!」
班長は新人隊員が最後まで言い切らぬうちに叫んでいた。
トニーが振り返ると、三日月斧バルディッシュ を構えた疾走する筋肉の塊が1.5メートル先に迫っていた。トニーはとっさに胸の前に剣を構えた。ピッグスが得物を振り上げた。剣が弾き飛ばされる。バランスを崩したトニーは、舞台下の半円型の床オルケスタ の中央に背中から倒れた。ピッグスは三日月斧バルディッシュ を上空高く放り投げると、滑らかな一連の動きで天高くジャンプ! そしてその落下地点で仰向けになっているトニーの両肩に膝から着地!
──ボキム!
「ぎゃむぅっっっ!」両鎖骨が砕けてトニーは悲鳴!
さらにピッグスはマウントポジションから、ガントレットを装備した両拳で無情のマシンガン鉄槌パウンド !
──ボコボコボコボコボコボコボコボコ!
──あぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ!
一瞬で数十発の鉄槌パウンド をたたき込むと、今度はバネ仕掛けのように立ち上がり、その勢いのまま連続後方転回バク転 で客席中段に退避!
「シャアッ!」
気合い一拍して残心!
するとその構えた手元に、先ほど空中に放り投げた三日月斧バルディッシュ が、帰巣本能にでも導かれたかのような丁度よさで帰還!
この間わずか5秒足らず! 他の班員が助けに駆け寄る隙もない、文字通りの秒殺であった!
「トニー!」班長が叫ぶ。
仰臥するトニーは、顔の中心部が無残に拳形に陥没していた。遠目に見ても、脳に達する深さであることは疑いなかった。初陣の青年はそれでもなお弱々しく痙攣していたが、それもすぐに止まった。
「くそったれが!」
「よくも!」
「許さん!」
色めき立つ班員達。しかしトニーを屠った凄まじい技前を見てしまっては、うかつに踏み込めない。
手練れのピッグスは先ほどの位置で構えたままタイミングを伺っている様子だ。班員達はそれぞれ得物を構えたまま、すり足でじりじりと移動し、ピッグスを頂点とした扇型フォーメーションを形成する。
円形劇場に発生した殺気が徐々に高まっていく。臨界点が近いことを班長は肌で感じる。このピッグスは今までにない手練れだ。自分もここで死ぬかも知れない。彼は唾を飲み込んだ。
その時──
「何を手こずっている」
そこはかとなく中性的な、それでも女とわかる声が投げかけられた。
舞台中央奥のアーチ門から現れたのは細身の長身。手足が長く、身の丈は2メートル弱ほどあるだろう。長いストライドでゆったりと、こちらに歩みを進める。
そしてその身に纏っているのは、他の隊員達に比して明らかに数段上の装備。
狩人用の大きな羽帽子。大きな襟のついたスリムフィットの魔獣革コート。上品な貴族調ブラウスの上に、バックル付きの魔獣革ベスト。コート袖から覗くフリル。それとは不釣り合いにハードな剣士グローブ。白の強化綿ズボンに、魔獣革サイハイブーツ。腰の左右に二本のサーベル。鞘に魔獣グリフォンの刻印。
やがて、空を覆う魔術弾のオレンジの照明あかり がその素顔を照らし出した。
ラフに後ろで束ねられた金髪ロングヘア。ツーブロックの側頭部。
切れ長の目。無感情なブルーの瞳。
シャープなフェイスライン。薄い唇。
「隊長……!」
班長の意外そうな声音が、その人物の肩書きを明らかにした。
隊長と呼ばれたエリニュスは、舞台下の半円型の床オルケスタ に横たわる、顔の潰れた遺体に目をやった。
「……トニーです。初陣でした」
敵に注意を保ったまま、班長が抑制的に報告した。
「そうか」
エリニュスの返事は、たったそれだけだった。